Thailand|ピンクのカオマンガイ/タイで思い出す「平成米騒動」

 通称、ピンクのカオマンガイで知られている「ゴーアン カオマンガイ プラトゥーナム(Go Ang Pratunam Chicken Rice) 」に行ってきました。1960年創業だそうですよ。



バンコクにはいくつか人気店がありますが、ここはビッグCなどにも近い繁華街、ピンク色の看板と、ピンクのユニフォームを着ている店員さんがいるので、すぐわかると思います。

 

さすが人気店、やっぱり混んでいましたが、20分待ちくらい。観光客より、地元の人でいっぱいという感じです。値段も40バーツくらい(140円くらい?)だったと記憶しています。



東南アジアの庶民料理「カオマンガイ(海南鶏飯)」は、シンガポールやタイ、香港などへ移住した海南島出身者の華僑によって伝えられた、海南島の伝統的な家庭料理だったそう。鶏肉なので、宗教上の理由から豚や牛を食べないマレーシアでも人気とか。

カオマンガイ自体は日本でも食べられるのですが、東南アジアのエアコンもない吹きさらしのお店で、暑い暑いと文句を言いながら食べるのが、やっぱり一番おいしいんじゃないかと思いました。


激旨!タイ食堂
バンコクで6店舗を展開するカオマンガイの王者
「ゴーアン カオマンガイ プラトゥーナム」
https://gekiuma.net/goangpratunamchickenrice/





タイ米で「平成の米騒動」を思い出す
タイに来て、タイ米を頂いて、このパラパラ感も懐かしいと思った人もいるかと思います。

1993(平成5)年に起きた「平成の米騒動」。およそ80年ぶりという記録的な冷夏と、梅雨前線が長期間にわたって停滞したことによる日照不足により、日本でイネの記録的な生育不良となりました。その頃、お米の在庫も例年より少なかったことも影響したようで、日本の米の食糧市場は大混乱、それが世界の米市場にまで波及した騒動です。

やはりというべきか、買い占め、ヤミ米販売も起きました。

この不作への対応として、日本政府が各国に米の緊急輸入の要請を打診したところ、いち早く応えてくれたのがタイ政府でした。
自国の備蓄在庫を一掃する勢いで送ってくれたものの、今度はタイ国内で米価が急騰してしまい、日本の不作の煽り大きく被ってしまいました。身を削っての援助という事態になったと知り、感謝と共に何とも言えない気持ちになりました。

あれから約四半世紀、カオマンガイのパラパラしたゴハン粒を見つめながら、思い出してじ~んときました。

「あの時は、ありがとう」。


ただ、当時は日本米のふっくらした炊きあがりと、粘り気のあるご飯が当たり前だった日本人にとって、パラパラとした細長いタイ米に違和感を感じた人が殆どだったと思います。
お水の量を調節したり、もち米を加えたり、炊飯器ではなく土鍋で炊いてみても、やはりいつものように炊けないんですよね。品種の違いは大きくて、その程度の工夫ではどうにもカバーできませんでした。

日本米はスーパーから姿を消し、たまに見かけてもすごく高くなっているのに、すぐなくなってしまうということを繰り返し、どんどん高騰していきました。記憶は定かではありませんが、騒動前10kgで5,000円前後だった国産米の価格は、8,000円超~12,000円位にまでなっていました。14,000円というのも見たことがあります。
そんな状況だったので、「ブレンド米」というものまで登場し、割合によって値段が異なりました。またこの頃から「備蓄米」という言葉も流行してたように感じます。

「タイ米叩き(不衛生だとか色々)」の報道もありました。
今みたいにインターネットがなく、伝聞便りなのはいいのかどうか。タイ米をやたらと避けて廃棄する消費者がいたのも事実ですが、一方で廃棄に対しての批判の声も高まりました。
ただ、メディアの場合は、タイ米を叩いているようで、政府が行った従前の強気な禁輸方針を一転して緊急の輸入措置を取ったことから、備蓄米は十分だったのか等、政権批判がメインだったような印象でした(当時は、細川政権)。


食べ慣れたものがいいと思うのは誰もが同じですが、
「食料の種類や質を選択できる時代になったのに、選択して何が悪い」
「毎日の主食が口に合わないのは困る。ストレスになる。食欲がわかない。」
「いつまで続くんだ、耐えられない」・・という不安や意見も聞かれました。

その一方で、やっぱり日本米が口に合うと認めつつ、
「せっかく送ってもらった食べ物に文句を言うのは下品、粗末にするのは罰当たり」
「あの頃(戦中戦後)を思えば、別にどうってことない。」
「すぐに送ってもらえる世の中になってありがたい」
「別に、田んぼが全てダメにわけでも、戦争でもないから、悲観することはない。」
という意見も聞かれました。戦中戦後を知っている世代もたくさんいましたからね。
私の周囲にはこちら側の意見の方が多く、周囲の大人が泰然としててくれたことは、まだ人生経験が少なかった私にはありがたかったです。

普通に暮らしている分にはタイ米否定の言葉はあまり耳にすることもなく、メニューを考えたり、工夫していた人が多かった印象です。間もなくカリフォルニア米や中国米も入ってきましたが、インディカ米もやはり日本人の口には合わないという声も。そうこうしている間に騒動は収束。翌年には戻ってたんじゃなかったかなあ・・。

そんな騒動でしたが、タイのみなさん、ありがとう。



*  *  *  *  *  *
<編集後記>
1918年の「大正の米騒動」とか歴史の授業で習いましたが、暴動事件が起こるような切羽詰まった雰囲気はないものの、ただ、やはり色々なことがあったように記憶しています。もし輸入が全くなかったらどうなっていたのかなあと思います。それ以降、個人のお宅でもお米は少し多めに買っておくなど、ささやかな備蓄の習慣ができ始めたのかなと思います。
ひどい冷夏になったのは、1991年6月のピナツボ火山の大爆発との関係や、偏西風の蛇行とエルニーニョ現象も要因と言われています。江戸の大飢饉などをはじめ、飢饉の前には、ひどい冷夏なんですよね。



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