急な坂道が多い熱海には喫茶店も多く、一休みするには困らないのですが、素敵なお店も多いのでどこにしようか迷うところ。熱海銀座や熱海サンビーチの近く、渚町にある「Cafe田園」さんにも行ってきました。
お店の外観は素朴なのに、店内はゴージャス仕様です。現在のご主人のお父様が1959(昭和34)年に開業。木造店舗でのスタートでしたが、6年後に鉄筋に建て替えて以来、内装はほぼ当時のままだそう。
「COFFEE DENEN」とありますが「Cafe 田園」の方が正しいようで。物腰柔らかなご主人と、ニコニコしていて可愛らしい奥様のお二人で切り盛りされていました。
店内中央にある大きな水槽というか池には、鯉が泳いでいました。またグリコのパピコみたいな謎の白いオブジェのテーマは「家族」。熱海海岸国道135号沿いの「貫一お宮の像」や熱海駅構内にある東海道新幹線開業記念像「飛躍」を制作した彫刻家・舘野弘青(たてのこうせい、1916~2005年)さんの作品。
お店を建て替える際、熱海にアトリエを構えていた舘野さんに作ってもらったのだそうです。これが、貫一お宮の像(↓↓↓)
最盛期は熱海が新婚旅行ブームだった昭和30年代。当時は地下と2階を使って、朝から夜中の2時まで18時間も営業していたほど忙しかったとか。
新婚旅行は交通の発達とともに遠くに行くようになり、東京からだと江ノ島、次に熱海、南紀白浜、日南海岸、ハワイといった具合に。カップルはどの時代も海が好きなんですね。
ところで新婚旅行が定着したのはいつ頃か?その歴史を振り返ってみたいと思います。
日本で初めて新婚旅行をしたのは坂本龍馬とおりょう夫妻だと言われています。新婚旅行といっても、京都・寺田屋で伏見奉行所の役人に襲われて負傷した龍馬の療養も兼ねてたので、楽しむという感じではないですよね。ちなみに行先は鹿児島県霧島市の塩浸温泉だったそうです。
1883(明治16)年1月19日の東京日日新聞に「井上(馨)参議の令息勝之助君夫妻は、去る十六日熱海温泉に赴かれたり。新婚まもなき旅行は・・・」とあり、このご夫婦が新婚旅行第一号とされてはいるものの、“新婚旅行”という言葉はまだなかったようです。
明治維新以降、西洋文化を紹介する訳報が色々と出ていて、1889(明治22)年1月に刊行された、仏教哲学者・井上円了の『欧米各国政教日記(第110結婚儀式の大要、第111甘月旅行)』、に英国の新婚旅行の習慣とそれを「ホネムーン」というのだと紹介されています。明治時代はまだ新婚旅行自体が珍しく、鉄道網が徐々に整備され始めたばかりで、ごく一部の富裕層が東京起点だと神奈川県の江ノ島や逗子海岸あたりに行くのがせいぜいでした。なので、参議の令息が熱海に行ったときは、
「東京」ー(汽車)―「国府津」ー(馬車鉄道)ー「小田原」ー(人力車)ー「熱海」
という経路だったそうです。現在、小田原~熱海間には長短含め15カ所くらいのトンネルがあります。トンネルがない時代に小田原から熱海までの山越えを人力車って大変だっただろうなと思います。熱海って遠かったんだなー。
明治半ばになると湘南や熱海など東京近県の海沿いの村は別荘地として開発されていきました。1897(明治30)年、尾崎紅葉の『金色夜叉』が読売新聞紙で連載が始まると、熱海への旅行に行く人も増えたとか(この時代の開発と小説は関係があるのか、神奈川県の逗子海岸の別荘地や観光地開発も小説の影響は大きかったそう)。大正時代から徐々に熱海へのアクセスはよくなり、新婚旅行の習慣も広まり、昭和に入ると熱海は新婚旅行のメッカになりました。とはいえ、まだまだ庶民が行ける時代ではありませんでした。
戦争が終わり、昭和20年代後半から30年代は、東京から熱海への新婚旅行が再び大流行。庶民も少しずつ娯楽を愉しめるようになり始めていたことに加えて(朝鮮戦争の軍需景気の影響もあり)、当時の国鉄が長距離電車の先駆け「湘南電車」を運行させたことがブームを盛り上げ、「臨時急行ことぶき号」なんてものまであったとか。多くのカップルが白いスーツを着て乗り込んだそうですよ。
こうした時期にできた旅館・ホテル、飲食店がまだまだ残っています。
熱海の歴史についてはまた別の記事で触れていきたいと思いますが、田園さんをはじめ、今私達がレトロ喫茶だと喜んでいるのは、こうした時代にできたお店が多いようです。時代を感じますね。
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