静岡|熱海駅周辺(2):軽便鉄道車両と人車鉄道

 

熱海駅前の商店街入口に展示されている小さな蒸気機関車 。遠目で見たとき、オブジェか子供の遊具かと思ってしまいましたが、明治の終わりから大正にかけて、実際に熱海と小田原を結んでいた軽便鉄道機関車「熱海軽便鉄道7機関車」でした。見る人が見ればとても価値のあるものなのだろうなと思います。

 

蒸気機関車というと。デゴイチの愛称で知られる「Dー51」のような、大きくてパワフルな車両や、たとえばJR新橋駅前のSL広場に飾られている蒸気機関車を思い浮かべてしまうけど、最初からあんなに大きかったわけではなかったのですね。

  

軽便鉄道

軽便鉄道とは聞きなれないですが、一般的な鉄道よりも建設費・維持費の抑制のため低規格、簡便で安価に建設された鉄道のこと。主に人口の少ない地方末端部に点在する産業の発展のために敷設されたとか。

日本で最初に1067mm未満の軌間を採用した鉄道は、1880(明治13)年の工部省釜石鉱山鉄道。客車としては、1888(明治21)年、伊予鉄道の「坊ちゃん列車」だと言われています。
軽便鉄道の規格のままの現在でも営業しているのは「四日市あすなろう鉄道内部・八王子線」、「三岐鉄道北勢線」、「黒部峡谷鉄道」くらいで、あとは工事や資材輸送用として利用されている程度だそうです。動態保存という形であれば、他にもあるかもしれませんが。


ここにあるのは、長さ3.36m、高さ2.14m、幅1.39mのミニサイズ。SLの初期のものと言ってよさそうです。
時速は9.7Km。成人男性が普通に歩くと時速4~5kmらしいので、歩くよりは早いものの、時速10km弱だと買い物帰りのママチャリくらいでしょうか。この小さな機関車で40~50名を載せた車両を牽引していたそうです。


また、説明板によれば「熱海・小田原の所要時間、軽便鉄道=160分、東海道本線=25分、新幹線=10分」とのこと。スピードだけでなく、乗客数や快適度なども考えると100年くらいの間に鉄道がこんなに進化していたことに驚きます。

 


関東大震災で線路が全線損壊して廃止されるまで活躍。現在は「鉄道記念物」にも指定されている貴重な機関車なのだそうです。

 

仲見世商店街に昔の写真が飾られてましたが、その中に大正時代初期の軽便鉄道の写真がありました。

 

(画像:熱海芸妓置屋連合組合)

 珍しかったんでしょうねぇ(笑)。
なんて書いている私も。昔、家族で新幹線の前で写真を撮った記憶が。どこか見知らぬ土地に行ける、知っている人のところに気軽に行けるというのは、どの時代も楽しいものだったのですね。

 

 

人車鉄道

この軽便鉄道が走る前には、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道「豆相人車鉄道」が走っていたそうです。熱海駅から少し歩くと人車鉄道の駅だった場所に記念碑が建てられていました。


 

勾配の急な坂が多い熱海では歩くか、駕籠か人力車くらいしかなく、移動は大変だったと思います。既に温泉地として開かれていたし、文化人なども訪れていたため、旅館業界を中心に地元有志や京浜の実業家たちが小田原熱海間の鉄道敷設を計画したことが始まりだとか。


小田原~熱海間25.6kmを約4時間で走りました・・・、走ったというか押していたというのか。説明板によれば、1車両に客は6~8人、それを2~3人で押し、急な上り坂では客も降りて一緒に押したとか。




それが今では、1分電車が遅れただけでクレームを言う時代になってしまいました。どちらがいいのやら。


*  *  *  *  *
<編集後記>
今あるものは当たり前じゃない、とか、感謝すべきと言われると、「もしこれが何かの理由で突然なくなったら?」と想像しがちですが、歴史を遡ってみて「それがなかった時代を知る」のも大切なことと思います。
たった100年か150年、つまり1世紀~1世紀半、世代でいえば3~6世代くらいでしょうか。その間にこんなに便利で快適になりました。それが当たり前に思っている私達ですが、どれだけ多くの人が頭を捻って身体を酷使して、毎日毎日学んで働いて、何かを積み上げてきたのか。その上に私達はいるのですよね。何だかすごく高い下駄を履かして頂いているような。
便利で快適になったけど、その分鼻持ちならないヤツになっていないかな、なんてちょっと反省しつつ、100年後どうなってるのかな、今自分たちが何を積み上げているのかと気になったりしています。
 

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