台北の中心部に壮大なスケールで建設された「国立中正紀念堂」。蒋介石(1887年10月31日ー1975年4月5日)の死後、哀悼の意を込めて建てられたもので、1980年竣工、同年4月5日に一般開放されました。本当に広く、その敷地総面積は25万㎡にもおよぶそうです。
| 麓にいる人達と比べるとゲートの大きさがわかる(人が小さいのではありません) |
中国本土とは異なり、小さな島国の首都・台北の中心にこれだけの広さを持つというのも「権力」の現れのようにも思えます。「中正」とは蒋介石の別称で、台湾では「蒋中正」という名称が一般的、「大中至正」は本人お気に入りの座右の銘だと言われています。
その意味は、「大」きく「中」庸で「至」極「正」しい、一方に偏らず極めて公正・中庸という意味の言葉で、儒教思想に由来しているそうです。
【追記:2008年3月】
1980年代以降の民主化運動や台湾人アイデンティティの高まりによって、これまで神格化されていた蒋介石への再評価が行われ、この「大中至正」の表記は2007年に「自由廣場」に改められています。物理的にはたった4文字が差し替えられただけなのですが、歴史を感じつつ、妙に重く、考えさせられるものがあります。
また、中華的なお決まりの配色「赤×黄」 ではなく、「白(大理石)×青(瑠璃瓦)」なのは、辛亥革命の指導者・孫文が考案したとされる「青天白日旗」が原型なのだそうです。現在では、周囲の公園や花壇に革命の犠牲や民族の独立を表す赤色の花を配置することで、台湾の国旗の3色「青・白・赤(青天白日満地紅)」を表現するようになったとか。
もともとこの地は、清代でも日本統治時代にも軍用地で、戦後も中華民国の陸軍総司令部などが置かれていました。1970年代初め、軍事施設の郊外移転に伴い、副都心化の計画を立てていたものの、蔣介石の死去により、国立中正紀念堂の建設地となり、現在に至るのだそうです。敷地は確保できていたともいえますが、建築は北京の紫禁城や天壇を意識していたようにも思います。
ちなみに、北京の紫禁城の広場も本当に広かったのですが、敷かれていた大きな石畳はだいたい1m四方くらいの大きさ、ちょうど成人男性がひとり立つスペースにしてありました。整列するときを想定したのだと思います。対して、中世記念堂前の石畳はもう少し細かくそういう感じではありませんでした。
| デザインが北京の「天壇」に似ているなあ。 |
この本堂の高さは70m。八角形の屋根は孫文が唱えた八徳「忠、孝、仁、愛、信、義、和、平」を表現し、全部で89段の階段(=三面の階段の合計84段+正面の階段5段)は蒋介石の享年89歳を示しているそうです。本堂の中に大きな像があるのが見えますでしょうか?微笑みを浮かべた巨大な蒋介石の銅像です。
蒋介石もまた激動の時代を生きた人でした。中華民国初代総統・中国国民党総裁ですが、国共内戦の中、1949年に中国国民党を率いて台湾への遷都を余儀なくされ、故郷である中国には二度と帰ることはできませんでした。銅像は中国の方に向けられているそうです。
蒋介石について
https://www.cksmh.gov.tw/en/cp.aspx?n=6412
本堂の右側にある国家戯劇院(オペラハウス)や、左側の国家音楽庁(コンサートホール)もかなり立派な建築です。この他に公園広場、庭園、池(光華池・雲漢池)なども併設されています。
とにかく広くて、建物は見えるのですが、歩いても歩いても到着しない広さでした。冬だったからよかったとはいえ、夏だったら絶対に水筒が必要です。
中正記念堂
台北市中正区中山南路21號
MRT「中正紀念堂」駅の出口5
https://www.cksmh.gov.tw/en/cp.aspx?n=6404
【編集後記】
1990年3月16日~3月22日、台北の学生運動「野百合学生運動」があり、当時、デモや集会の禁止地域に含まれていたここ中正紀念堂でも座り込みが行われています。その9カ月くらい前、北京で天安門事件が起こり、その惨状を学生たちが知らないはずはないのですが、それでもここに集まり、民主化のために戦った、そういう歴史もある場所です。
台湾の人たちは、親切で気さくで穏やかだけれど、自分たちの力で自由や民主主義を勝ち取ってきた強い意志と力の持ち主です。彼らがどのような戦いをしてきたのかをもっと知りたいと思うし、いつか彼らが語れるときが来て、聞かせてもらえるならば耳を傾けたいと思っています。
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