東京|花街特有の路地が残る:神楽坂(新宿区)

神楽坂は、石畳や黒塀、寺社、古民家や旅館、芸妓さんなど、昔の日本の風景を残しながら、和と洋、伝統とモダン、庶民的なお店と高級料亭、多種多様なお店が揃っています。

 

周辺には、東京理科大学や法政大学、アンスティチュ・フランセ東京、パラパラの殿堂のディスコ「ツインスター(1992ー2003年)」が存在していたことも。今回は「路地裏」とか「横丁」を歩いてきました。敢えて、夜に。

 


 

路地に入るとグッと雰囲気が変わります。



神楽坂の花柳界は江戸後期の1857(安政4)年に誕生、当時は「牛込花街」と言っていたそうです。新橋、赤坂、芳町、浅草、佃島と共に「東京六花街」のひとつとして栄え、西の祇園に対して東は神楽坂といわれるほどになっていたそうです。

花街としての最盛期は戦前で、料亭や待合だけでも150軒以上、芸者さんや幇間(ほうかん=芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる男性)が600人以上いたそうです。現在は、芸者さんも30名ほど、料亭も20余軒だそうです。伝統や文化を守る人達が奮闘してこの数字ですから、いかに時代が大きく変わったのか、残すことが難しいかが伺えます。



また、商業地としてもとても栄えていました。明治20年頃、毘沙門天さんの縁日のときは、今でいう「歩行者天国」にしていたほどだったそうです。関東大震災のとき、建物の延焼や倒壊を免れたことから、日本橋・銀座方面より商人が流入、特に老舗(松屋、三越、白木屋、資生堂等)が移転してきたことで、さらに繁華となり、山の手銀座と呼ばれたほどの賑わいでした。


それでも一本路地を入るととても静かで、江戸時代に蜀山人、明治期には尾崎紅葉、泉鏡花などの文学者・文芸人が多く住んだところでもありました。昔から、多種多様だったのですね。



兵庫横丁(神楽坂4丁目)
神楽坂界隈の最も古い道、鎌倉時代からの鎌倉古道で、当時の要衝。兵馬を通すための使われていたそうです。戦国時代に牛込城の武器庫(兵庫)があったことが名称の由来、江戸時代は、武器商人の町であったとも言われています。




ホン書き旅館の名で知られている和可菜。
昭和29(1954)年に木暮実千代さん姉妹が経営。このあたりの旅館には、野坂昭如氏や山田洋次氏などが滞在していたそう。

明治時代に武家地分割によって路地が形成したそうで、当時の町は空襲で焼けたため、町並みの基礎は戦後に造られたもの。




かくれんぼ横丁(神楽坂3丁目)
大正時代の花街の様子や日本家屋が一番残っているところだそうで、よくロケ地に使われているそう。「お忍びで遊びに来た人を後ろからつけて来ても、横に入られるとわからなくなる」ところから名付けられたと伝えられるほどの狭さは、今や希少です。


現実的なことを言えば、消防法とか福祉対策はどうなっているんだろう?


たしかに道、狭い!すれ違うのもやっとというか、気を遣います。





芸者新道(神楽坂3丁目)
明治時代にできた道で、花柳界の名残を名に残す路地。芸者さんたちが近道に利用することが多かったそうです。



今ではもうあまり古い民家はありませんが・・。




みちくさ横丁(神楽坂1丁目)
袋小路の、すごく短い横丁です。



横丁の中でもかなり庶民的。お蕎麦屋さん、ジャズバー、スナック、山形料理、 ステーキ屋さん、小料理屋、居酒屋などなど。どちらかというと、「昭和」な感じ、ネクタイを緩めた明るい酔っ払いがいそうな雰囲気です。




神楽坂通り商店街:
http://www.kagurazaka.in/

一般社団法人新宿観光振興協会:
http://www.kanko-shinjuku.jp/pamph/-/map_003.html

さんたつ(散歩の達人)神楽坂の記事一覧:
https://san-tatsu.jp/area/111/



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<編集後記>
花街特有の路地は日本でも、もうここにしかないといわれていましたが、21世紀に入ってから急速に、チェーン店やコンビニの進出、住宅街では次々にマンションが建設されています。老舗や古民家などが急速に減少し、昔からの風情は年々失われ、久しぶりに来ると、あれ?あの古民家は、あのお店は・・・とか、寂しさを感じます。景観保護に指定されているとはいえ、その保護対象以外のところは、どんどん建て替えられて、倉敷みたいな「そこだけ」な感じになるのかなー。

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