東京|岩波ホールが閉館なんて・・(神保町)

 2022年1月11日、「岩波ホールが54年の歴史に幕、7月29日で閉館」というニュースが駆け巡り、海外でも話題になったそうです。

そもそも岩波ホールのようなミニシアターが好きな人は、その映画が観たいのもあるけど「映画館で観たい」「その映画館が好き」とか、他の理由もあるような気がします。その場に行くことすら楽しいというか。また、そこに訪れた人たちの人生の中で、さまざまな思い出の場所だったり。岩波ホールは、私にとっても亡き父との思い出の場所でもあります。


 

神保町は、世界最大の古書店街。
岩波書店、小学館や集英社の他、中小の出版社や印刷所が集まる。

閉館の理由として、「新型コロナの影響による急激な経営環境の変化を受け、劇場の運営が困難と判断いたしました」とのこと。今の若い世代の映画離れや高齢化も進み、映画館も客足が減っているとは聞いても、岩波ホールはいつも混んでいた記憶がありました。実は想像以上に大変だったのかな。
 


これまでも多くの困難を乗り越えてきた岩波がした決断、本当に大変だったのだろうと思います。

「知的な大人の映画館」に思えて、若い時はドキドキしながら扉を開けてた。


コロナの影響
主要映画館の入場者数を基に作成された映画館指数というものがあり、2015年を「100」とすると、2020年5月は「1.3」まで落ち込みました。

「映画感指数の推移」
経済産業省: 統計・ヒット作品からみる映画館の動向(2021年2月2日)

(詳細)経済産業省:経済解析室ひと言解説集 ヒット作品からみる映画館の動向



クラウド・ファンディングなどの支援もあっても、運営を続けるためにはもっと違う支援が必要です。それは映画館やファンがどうにかできるようなレベルではないとわかっていても、もっと何かできなかったかなと。それにしても、文化・芸術は素晴らしいとか言ってる割に、国からの支援が少ないような気もする・・。

以前は、チケット売り場は1階にあった。


岩波ホールの特徴
老舗ミニシアターで、有名でなくても「質の高い映画」にこだわり、どうやって見つけて来たのかと思うほど、様々な国やテーマの映画を観られる場所でした。
神保町という土地柄や、社会派・アート系の映画を扱っていたことに加え、「日本初、各回完全入れ替え制定員制を実施」「会員制度がある」「外国映画の場合、日本語字幕の読めない未就学児の入場をお断り」という特徴のせいか、他の映画館とは雰囲気も違います。
(昔の映画館って、入れ替え制じゃないし、立ち見もあったし、2本立てや3本立てもあったんです。ホントです。)こうした、岩波ホールの興行方式や実績は、その後に続くミニシアターに大きな影響を与えていきます。

岩波ホールの方針は、よい映画であれば集客にかかわらずロングラン上映すること。商売になりにくいといわれる欧米圏以外のもの、有名でなくても質が高く、社会的なメッセージ性の強い芸術作品を、ジャンルにこだわらず選んできたそう。その数、65か国の271作品。一番多いのは「ジョージア(グルジア)映画」という珍しい映画館なのだそうです。

かつては、上映30分以上前には、もう人がいっぱいになっていたロビー。

 

岩波ホールで上映され、大きな反響を呼んだことがきっかけで、各地の劇場で上映されるようになった作品も結構あるそうです。中でも、2013年上映の『ハンナ・アーレント(20世紀を代表する哲学者の伝記映画)』は記憶に新しいと思います。


歴史
岩波書店の創業者・岩波茂雄さんのご子息・岩波雄二郎さんが、千代田区から「東京に3本の地下鉄が通るから、文化的な場所を作ってほしい」という要望を受けたことがきっかけだったそうです。岩波雄二郎さんは自費で岩波ホールを創設。1960年代はテレビが普及し、日本映画産業自体が衰退していた頃です。

●1968年2月9日:多目的ホールとして開館。
映画講座、音楽サークル、古典芸能シリーズ、学術講座、の4つの柱を中心に催しをする、文化的な学びの場だったそうです。(その名残りが、色々なところに感じられます。名前も「ホール」ですしね)。

●1970年代
ヨーロッパの作品が多く、ヴィスコンティ、ベルイマンなどの新作を取り上げ始め、1973年ぐらいまでは、日本やフランス映画特集を上映し、何と、講座付き!!椅子の背に折り畳みの机を付け、ノートを取れる仕様になっていたとか。今でも上映中にメモを取る人もいるせいか、机はないものの、上演中も少し照明を点けていて、真っ暗にはなっていません。

●1974年2月12日:エキプ・ド・シネマを開始。
総支配人の高野悦子さんが「エキプ・ド・シネマ(フランス語で映画の仲間)」を開始。岩波ホールが、あまり知られずにいる国内外の映画を発掘し、上映する活動を始めたのは、この頃。高野さんは

「映画をつうじて知られざる国の真の姿を理解することが大切だと思うからです。誤解とか偏見によって人は対立を生みます。(中略)世界の平和を考えるとき、私たちは公正な広い視野をもつ必要があると思うのです」

と語っています。
エキプ・ド・シネマは、以下のような目標を掲げていたそうです。

「日本では上映されることの少ない、アジア・アフリカ・中南米など欧米以外の国々の名作の紹介する」

  • 欧米の映画であっても、大手興行会社が取り上げない名作の上映。
  • 映画史上の名作であっても、何らかの理由で日本で上映されなかったもの。またカットされ不完全なかたちで上映されたもの。
  • 日本映画の名作を世に出す手伝い。


第一回上映作品は、インドのサタジット・レイ監督の「大樹のうた(3部作「大地のうた」の第3部にあたる)」。言葉はベンガル語。

 

スマホで上演スケジュールを確認できなかった時代、置かれているチラシは大切な情報源。

 

●1980年代
その後、およそ四半世紀ほど続く、ミニシアターブームが到来。
大手興行会社が、繁華街に岩波ホールに似た造りの200席前後の小劇場を次々にオープンさせていきました。ただそれ以前に全くなかったわけではなく、1973(昭和48)年11月に三越が日本橋本店の南館内に名画座「三越映画劇場第一号館」をオープンしています。

 


この頃、岩波ホールでは、既に日本で紹介されることがなかった国の作品を、次々と上映していました。
ポーランド、ギリシャ、南米、アジアなど。その後、渋谷を中心にミニシアターブームが起こり、多くの映画館が個性的な作品の数々を上映、文化の発信に力を注いでいましたが、そんな中でも、岩波ホールは既に多くの実績があり、ちょっと格が違うと思わせる感じがありました。

私の場合、知的にはなれなかったけど、本当にいろんな世界を見せてもらい、いろいろなことを学ばせてもらってきた場所、もうひとつの学校みたいな感じでもあったかな。また、ロビーで開場を待っていると、年配の方が声をかけてくださるので、ひとりで行っても誰かと来たみたいに楽しかった!


7月29日が最後です。
「ありがとう」と「お疲れ様」以外の言葉が見つからないです。


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