東京で育つと「思わず入りたくなるような海に行きたければ、遠くに行かなければならない」という刷り込みに近いような根深い思い込みがあります(特に昭和育ちは)。湘南に行けば?相模湾は東京湾よりずっときれいでは?と思ったら、「まあ、東京湾よりいいけど、思わず入りたくなるかっていうとそんなこともない」という感じだと思います。
熱海だって東京から1時間半で来られる距離だから、きれいといってもたいしたことないんじゃないの?と期待せずに来たら、水に透明感があるのに驚きました!
東京で育つと「思わず入りたくなるような海に行きたければ、遠くに行かなければならない」という刷り込みに近いような根深い思い込みがあります(特に昭和育ちは)。湘南に行けば?相模湾は東京湾よりずっときれいでは?と思ったら、「まあ、東京湾よりいいけど、思わず入りたくなるかっていうとそんなこともない」という感じだと思います。
熱海だって東京から1時間半で来られる距離だから、きれいといってもたいしたことないんじゃないの?と期待せずに来たら、水に透明感があるのに驚きました!
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寅さんを演じる渥美清さんと山田洋次監督。 撮影は昭和44年から平成7年頃まで約26年間も続いた。 |
無声映画からトーキーへ移り変わると、周囲にある町工場の騒音が撮影に差し障ることから、1936(昭和11)年に、神奈川県鎌倉郡大船(現:神奈川県鎌倉市大船)に移転しました。寅さんでおなじみの「男はつらいよ」もここで撮影されていました。
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半世紀以上読み継がれている「はだしのゲン」。広島市に住む国民学校2年生の主人公・中岡元(通称・ゲン)が1945年8月6日に投下された原爆によって、父、姉、弟の3人を亡くしながらも、たくましく生きる姿を描いた名作です。現在では24の言語に翻訳され、単行本の売上は累計で1千万部以上、アニメ化や映画化もされました。
終戦時に6歳だった中沢啓治さんが30代の頃に描いたもので、しかも自伝的要素が強い作品であるため、非常にリアルです。戦争や原爆投下の残酷さ・悲惨さ、唯一の被爆国としての思いを後世に伝える漫画として、家や学校の図書室で読んだ人は多いと思います。
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2004年に公開された「Super Size Me(スーパーサイズ・ミー)」 、Amazonプライムビデオで再視聴。日本にはコンビニもあるし、駅前には”早い・うまい・安い”を競い合うチェーン店もあり。明らかに日本人の体型も変化しつつあるなと思います。
不眠・抑うつ、イライラ、慢性的な疲労感、頭痛、食欲不振、便秘、冷えや浮腫み、皮膚トラブルなど何がしかの不調を抱えて働く私達。毎日食べているものが心身の調子に影響しているとは聞くものの実感は乏しいし、不調なときに限って「食事変えたくらいで良くなるかよ」と思いがち。
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2011年3月11日午後2時46分、三陸沖130kmでM9の地震が起き、福島第一原子力発電所では震度6を記録。多くの人が避難を余儀なくされ、計画停電も実施されました。時間が経過するにつれ、当時の緊張や事故の深刻さは人々の意識の中から薄れ、街にも以前のような明るさが戻っていきました。原発とその周辺で何が起きていたのか、私達はよく知らないまま、また知ろうとしないまま、再稼働に向けて舵は切られていきました。
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1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」。町が寝静まった午前0時過ぎ、アメリカ軍の爆撃機によって下町が焼かれ、東京の4分の1が焼失、10万人を超える死者を出した史上最大の大空襲でした。もう70年以上も前のこととはいえ、空襲があった痕跡も継承の施設も少なく、この時期になっても話題にのぼることも少なくなりました。
オーストラリア出身の映画監督さんが、東京大空襲の生存者たちを取材したドキュメンタリーが順次上映されています。ただ、東京の話なのに、東京では渋谷の「シアター・イメージフォーラム」でしか上映されていないようです。
渋谷109とヤマダ電機の間に「恋文横丁」と書かれたステンレス製の碑が立っています。終戦間もない頃、代々木公園にあったワシントンハイツに駐在していた進駐軍兵士と恋に落ちた女性たちの”思い”を翻訳してくれる代書屋さんがいたとか。
おそらく他の町にもこうした代筆屋さんは居たと思いますが(佐世保にもいたらしい)、ここを舞台にした「恋文」という小説と映画が人気となったことから「恋文横丁」という名前がつけられ、有名になりました。
2022年1月11日、「岩波ホールが54年の歴史に幕、7月29日で閉館」というニュースが駆け巡り、海外でも話題になったそうです。
そもそも岩波ホールのようなミニシアターが好きな人は、その映画が観たいのもあるけど「映画館で観たい」「その映画館が好き」とか、他の理由もあるような気がします。その場に行くことすら楽しいというか。また、そこに訪れた人たちの人生の中で、さまざまな思い出の場所だったり。岩波ホールは、私にとっても亡き父との思い出の場所でもあります。
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これも大事な昭和史。「10・8羽田(じゅっぱちはねだ)」という言葉をご存じでしょうか。「ベトナム戦争反対」を掲げていた学生たちが、1967(昭和42)年10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナムを含む東南アジア各国訪問を阻止しようと羽田空港周辺に集結、橋の上で機動隊と激しく衝突した事件。「たとえ1人でも羽田空港のなかに入れば飛行機は飛び立てない。佐藤首相のベトナム訪問を何が何でも阻止したい」と。
このとき、京大生の山崎博昭さん(当時18歳)が命を落とし、彼の死は特に同世代の若者達に大きな衝撃を与えました。この映画のタイトルの「きみ」とは、山崎博昭さんのこと。共に活動・支援していた人達の記憶、思い、その後の人生が語られます。何より滲み出るような心の痛みが聞いていてつらい。
世界中で多くの人が祈り続けているけれど、その祈りは聞き届けられているのか?と疑問を感じたことは誰でもあると思います。災害、戦争・紛争、事件、事故、飢餓、貧困、病など、どれひとつとして減っていないと。
知人が「祈りって効果あるんでしょうか?」と牧師さんにたずねたら、「何の期待もできないようなことを何千年もやり続けるほど、人類は愚かなんですかね?」と返されたそうです(笑)。
ドイツ人作家ハンス・ファラダがゲシュタポの文書記録をもとに執筆した小説「ベルリンに 一人死す(Alone in Berlin)」を映画化。
ドイツの一般市民もナチスに苦しめられていたと思うけれど、この作品では彼らが主人公となっています(以下、ネタバレがあります)。
JR「有楽町」駅のそば、銀座側と日比谷側を繋ぐガード下「有楽コンコース」。竣工は1966(昭和41)年。
壁には、「丹下左膳」「子連れ狼」「椿三十郎」「座頭市」「独眼竜正宗」などの古い日本映画のポスターが貼られています。日比谷・有楽町が映画街だったこと、映画の大量生産競争の激化していた時代の雰囲気が伝わってきます。
自主映画会にお誘い頂き「Go For Broke~ハワイ日系二世の記憶(日・2013年)」、ハワイの日系アメリカ人の歴史のお話です。
日系人の歴史をよく知らずに過ごし、今思えば学校でもほとんど教わらなった気が(←覚えてないだけ?)。若い頃、米国に行ったとき、よく知らなくて恥をかいたり、「日本人は自分たち日系人のことを何も知らないんだな」と複雑な気持ちにさせたこともあったかもしれません。
第二次世界大戦のインパール作戦の体験記です。激戦地で新米の主計(食糧調達)係が部隊のために調達するご苦労は、想像もつかないことばかり。書籍というよりも資料と言った方が正しいかもしれないくらいの本で、読み応えがあります。
また、インパール作戦がどれほど過酷で無茶な作戦であったか、そして終戦後の著者さんの活動についても関心を寄せて頂けたらと思います。
戦争や核について描かれたものとして再読・再視聴しておきたい作品。戦争や空襲の体験者の話を聴いていると感じる「自分は生き残って”しまった”」という感覚、「生死の境はいったいどこにあったのか」という疑問・・・。
そして、あのとき亡くなった人たちとの強い連帯感みたいなものを持ちながら生きてきたんだなと感じます。死者は過去の人・・と私達はつい思いがちだけど、本当に?
以下ネタバレします。
誰もが経験する大切な人との死別をテーマにしたFlashアニメ「Walking Tour」の絵本版。2002年に制作され、ネット上で広まり、人々の心を慰め続けているそうです。
「いなくなった人なんていない」。
島全体を見渡せる「登龍峠(のぼりょうとうげ)」からの眺望。すっきりした晴れではないけど、うっすらと左向こう側に八丈小島が見えています。見下ろすと海はすごく青い!!
八丈島の文化・歴史には「島流し」や「流人」の話が出てきます。彼らの影響抜きに語れませんが、ちょっとつらい話もあるので、読みたくない方はここで画面を閉じてください。
以前(2008年頃)南投縣・仁愛郷の町役場にお邪魔したことがあります。このあたりは、台湾原住民による最大で最後の抗日蜂起事件となった「霧社事件」があったところ。
この事件を題材にしたのが、2013年公開された映画「セデック・バレ」を観ました。残酷なシーンも多いので、つらくなりそうな方はここでページを閉じてください。