書籍・映画|原発を止めた裁判長、そして原発をとめる農家たち

2011年3月11日午後2時46分、三陸沖130kmでM9の地震が起き、福島第一原子力発電所では震度6を記録。多くの人が避難を余儀なくされ、計画停電も実施されました。時間が経過するにつれ、当時の緊張や事故の深刻さは人々の意識の中から薄れ、街にも以前のような明るさが戻っていきました。原発とその周辺で何が起きていたのか、私達はよく知らないまま、また知ろうとしないまま、再稼働に向けて舵は切られていきました。


2014年5月21日、当時、福井地裁の裁判長だった樋口英明氏は、大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じる判決を下し、翌年2015年4月14日には、高浜原発の運転差し止めの仮処分決定を出しました。日本で原発の運転差し止めの仮処分の決定が出されたのはこれが初めてで、非常に歴史的な判決でした。

 

原発関連の言葉も難しいけれど、法律の言葉も手続きの話も難しい。

正式裁判と仮処分
原発運転差し止めの裁判には、本案で裁判と言われる「正式裁判」と「仮処分」がある。正式裁判は公開の法廷で審理され、裁判所の結論は判決書に基づき公開の法廷で言い渡される。そこで、差し止めるという判決があっても、判決が確定するまで原発の運転を実際に差し止める効力はない。他方、仮処分の裁判は「審尋(しんじん)」とい手続きが非公開でなされ、決定書が当事者に交付されることによって裁判に結論が示される。

 

事故から数年経ったころに、聞かれるようになった言葉。
「あれだけの事故があったのだから、その後はきちんとした対策を取っているはず。」
「国だってそんな馬鹿じゃない。次に何か事故が起きた時のことは考えてるはず。」
「あのときだって最悪の事態にはならなかったじゃないか」
「裁判所も安全だと判断したから、再稼働が認められているのでは?」
「原発を動かさなければ経済がまわらず、停滞してしまう。」
「日本は危険な国だと思われる。いつまでもマイナスになるようなことを報道するのはどうなのか」
「再稼働には安全は絶対条件ではあるが、100%というのは不可能。動かして見つかる改善部分もあるのでは?」



まずは難解に思われる原発の仕組みから。
すごーく端折って、大まかに言うと、
  1. 原子炉の圧力容器の中のウラン燃料によって水を沸騰させ、発生した蒸気でタービンを回して発電する。
  2. その蒸気を海水で冷やし水にして、再び圧力容器に戻す。
  3. ポンプを使ってぐるぐる回している。
・・・ということらしく、火力発電所と仕組み自体はさほど変わらないものの、石油を燃やして水を沸騰させれば火力発電であり、ウラン燃料で水を沸騰させれば原発。
しかし、燃料の違いは大きく恐ろしいのです。


安全三原則
何かが起きたときに必ず守らなければならない三原則は「止める」「冷やす」「閉じ込める」。どれかひとつでも不十分なものがあれば、大事故になります。

火力発電所の場合、火を止めれば水の沸騰も止まり即座に安全になるのに対して、原発は、ウラン燃料のエネルギー量が大きすぎるため、核分裂反応を止めても崩壊熱によって沸騰が続きます。次第に水が蒸発していき、ウラン燃料が溶け出してしまいます。
核分裂反応を止めるにも電気が必要になるため、火力発電のバックアップは必須。電源が失われてわずかな時間でメルトダウンを起こします。電気が供給されたとしても、配管にトラブルがあって水が供給できなくなれば、時間単位でメルトダウンに至ります。原発の仕組みは非常に繊細なのですね。
また、原発の格納容器内にはヒロシマの原爆1000発分の死の灰が含まれているため、格納器の中に放射能物質を「閉じ込める」ことは絶対に必要となります。
福島原発では三原則のうち「核分裂反応を止める」ことはできましたが、電源喪失によって「冷やす」ことに失敗たためにそ「閉じ込める」ことができませんでした。


2号機はたまたま大爆発に至らなかった

2号機では奇跡が起きました(←多分これが「最悪の事態は避けられたじゃないか」に繋がっていると思うのですが)。
2号機は圧を下げるためにバルブを手動で開ける必要があるにもかかわらず、その場に行き着くまでに放射能で命を落とすような危険な状態だったそうです。たまたま、格納容器に脆弱な部分がある欠陥機であったため、そこから圧力が漏れて大爆発に至らなかったというだけだとか。もしその欠陥がなかったら「東日本壊滅」だったと言われています。
今回のようにたまたま大爆発に至らなかったケースであっても、15万人を超える人が避難を余儀なくされ、その避難の過程で60人以上の方が命を落としています。もう10年以上たった現在も立ち入りできない地域があります。

でも、その「たまたま」だけで何とかなったわけではありません。それこそ、危険な区域内で、命がけで何とかしようとした人たちが大勢いたことは忘れてはいけないと思います。


樋口裁判長の判決
原発を止めることについてさまざまな批判や歴史がある中、裁判長が差し止めの判決を下したことは大いに意味があったと思いますが、「裁判所に原発のことをちゃんと理解できる専門家はいないのに」「文系の人間にわかるものか」といった批判が相次いだといいます。
けれどもこの判決は、憲法13条が保障する「人格権(生命や身体、自由など、個人が生活を営む上で他者から保護されるべき基本的人権のひとつ)」を最優先したものでした。
樋口裁判長は、「①事故の被害の大きさ」「②事故発生の確率」という2つの危険性を指摘し、「危険かどうかで運転を差し止めるかどうかを決めるという当たり前の裁判をしただけ」とのこと。
非常にシンプルなものでした。

 

 
 
ソーラーシェアリング?
映画では樋口理論の説明があまりないので、樋口理論について知りたい方は書籍の方がおすすめです。映画ではどちらかというと農家たちによる「太陽光発電をするソーラーシェアリング」の話の方がボリュームがあるように感じました。穿った見方かもしれませんが、太陽光発電の宣伝?とさえ感じるような。
 
もちろん、農家全員が「よし、やろう」と満場一致で開始したわけではなく、「この美しい景観が損なわれる」とためらった人も居たそうです。それでも踏み切ったのはなぜか?「もう原発はたくさんだという思い」、「農業を続けるには?という現実」、そして何より既に太陽光発電をしている他の農家さんのところに行って話を聞きにいったとき、そしてその人がすごい笑顔だったということが決め手になったとか。

太陽光パネルを設置に立ちはだかる3つの壁、「お金(融資)」、「認可」、「近隣の理解」はあったが、設置してよかったそうです。パネルは両面タイプのため、冬場に雪が積もると反射して、パネルの裏側でも発電するとか。そして、パネルによってところどころ日陰ができるため、植物が疲れない。つまり、ずっと太陽を浴びて光合成をしているのではなく、日陰に入って休む時間ができたことによって、逆によく育っているそうです。
 
まだ、始めて数年だし、目先のメリットという感じがしなくもないので、今後どうなるのかは知りたいところ。東京でも太陽光パネルの設置義務が決定され、地方では斜面や屋上に建てた太陽光パネルの崩落、阿蘇山の目の前に並べられたパネルの光景の異様さなども取り上げられています。

もし、台風などで崩落したら?パネルの維持管理、整備、寿命、撤去費用、廃棄処理、そういったことに触れていないのが気になりました。その点を軽視して進めたら、結局、原発と変わらないではないかと。以前、日本は太陽光パネルについては先進だった時期がありましたが、今では中国の方がダントツで、パネルも中国製?

 
気になってるのは、結局「補助金ありき」ってことなんです。
あれだけの事故があり、風評被害も加わり、大打撃を受けた農家さんにとっては何らかの補償や、再建のための支援は絶対に必要です。国が動かなければいけないと思います。ただ、ソーラーパネル事業や補助金が、本当に農家さん達にとって必要なもので日本の農業にとってもよいものなのかどうか。
ちなみに、製造業が自社工場の敷地を利用して太陽光パネルを設置して売電をしたものの、さほど儲かるものではないと判断しているケースも少なくないそうです。

結局、他のビジネスが儲かるためとか、中抜き目的ではないのかな?何かあったときに農家さんたちが補償されない、またつらい目に遭うことがなければ・・・と心配になりました。映画を観終わった後、「これからは太陽光だね」なんて喜ぶ声があちこちで聞こえたのですが、事はそんな単純じゃないんじゃないかと、胸がざわついたの私だけでしょうか。
 
原発のことだけではなく、他のことを見ても、政府が日本の農業・漁業・酪農もそうだけど、国民を助ける気があるとは思えないんですよね。もちろん、そう思って頑張ってる人達がいるのもわかりますが、権力を持った人たちはどうなのかな?って。
騙されないでね、うまくやってね、とただただ祈るばかりです。

 

公式サイト
https://saibancho-movie.com/

 

私が原発を止めた理由



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<編集後記>
私達はつい、「原発は安全なのか?危険なのか?」については、様々な分野での高度な専門知識が必要と思いがちです。確かに、読んだところで簡単に理解できるものではなく、そもそも基礎学力がそこそこの一般人が、いきなり学者さんが読むような文献を読んで理解しようとするのであれば、それは無謀でしかありません。
ですが、「脱原発を唱えている人々はただの素人の集まりだ、感情論だ」と決めつけるのも大きな誤りだし、専門知識がなければ声を上げられない、話題に乗るものではないという思い込みも不必要なものです。
最初からわかる人はいないし、原発のつくりだとか、ウランがどうとか、そういう話を理解しやすいと感じる人はそう多くないので、生活者という目線で関心を持つことからで、全然よいんじゃないかなと思います。だって、被災した人もそうでない人も、みんな生活者なんですから。








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