東京|3番目の核被害:第五福竜丸展示館(2)(江東区夢の島)

前回からの続きです。第五福竜丸が被爆したのは1954(昭和29)年3月、そのときからまだ1年も経っていない1955(昭和30)年1月、日米両政府が慰謝料の支払いで合意。これにより、政治的には「決着」とされました。・・決着?


その被害についてもまだちゃんと明らかにされておらず、個人にとっては一生の問題なのに。



また、展示パネルから一部抜粋し、文字起こしをしました。


原爆マグロと放射能の雨:”Atomic Tuna” and Radioactive Rain
被害者は福竜丸だけではありませんでした。12月までに日本の船舶856隻が被害を受けました(政府発表分)。水揚げされたマグロは「原爆マグロ」と言われ、485トンが捨てられました。全国の漁業関係者、魚屋さん、寿司屋さんなどは、商売にならずに、怒りの声を上げました。また、5月頃から強い放射能を含んだ雨が降るようになり、日本中で不安が広がりました。9月になるとソ連の核実験による北からの放射能雨も降り始めました。野菜も果物も井戸水のこの雨に汚染されました。

The damage was not restricted to Fukuryu, According to the governments 856 Japanese fishing boats in all suffered from the Bikini explosion as of the end of 1954. Unloaded tunas for these months were named "Atomic Tuna" and 485 tons were discarded.
Fishing industry, fish dealers and sushi bars were nationwide put out of business and a strong voice of anger arose from them.
Radio actives, rainfall, which begin in November, 1954 , increased and spread fear and in easiness among Japanese people. Further another radioactive rain due to Soviet Union's nuclear explosion test added. The rains contaminated vegetables and even well waters.



第五福竜丸の報道の2日後には、神奈川県三崎町(現:三浦市)を皮切りに、原水爆実験禁止・原水爆兵器禁止の運動が広がり、市議会だけでなく、国会でも決議されました。今から50年以上も前からこうして署名も集められ、活動の火は消えていません。
けれど、原発は増える、核実験も増えています。



当時、無線長だった久保山愛吉さん(享年40歳)が、実験の日からおよそ半年後の9月23日、「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」という言葉を最期に亡くなりました。
第五福竜丸だけでなく、多くの漁船が被害に遭い、また、その周辺に住んでいた人達も移住を余儀なくされ、被爆しています。実験に関わった兵士なども含めると、どれだけの人が犠牲になったのか、明らかになっていないそうです。



▼NHK戦争証言アーカイブス(2013年2月14日収録)
:第五福竜丸元乗組員・大石又七さん

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0001810403_00000


第五福竜丸展示館
http://d5f.org/

 

第五福竜丸は航海中: ビキニ水爆被災事件と被ばく漁船60年の記録

第五福竜丸 [DVD]



 
 
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<編集後記>
こうして展示館や資料館ができると、つい私たちはそれを「区切りがついたもの」とか「過去のもの」と思ってしまいがちです。でも、本当に過去のものと言えるの?全容とか実態とかわかってるの?、何をもって解決なの?終わりはいつなの?など、疑問を持って見てほしいと思います。
また「被爆したかわいそうな人たち」ではなく、「その理不尽さや過酷さの中で強く生き抜いた人たち」。そして、今は私達は「自分は被爆していない」と思っているけれど、後から明らかになることもあり、決して他人事ではないような気がします。そのときに彼らのような強さを持てるかどうか。







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