LA|全米日系人博物館(3):そもそもの話、移民って

 前回の「全米日系人博物館(2)」からの続きです。博物館では一部のキャプションに日本語訳があるので、大まかな歴史は英語が苦手でもわかると思います。

それに加えて日本の戦争関連の博物館や資料館に比べると(国が豊かだから品質がいいのと、空襲等で焼けていないこともあって)、展示物の保存状態が非常によいこと、量が多いこと、写真も多いので、非言語でもわかりやすいと思いました。そんなところにも戦勝国のゆとりを感じます。

 

解説は、まずこの言葉から始まります。

Our population was already too heterogeneous before the Chinese came. I should not wonder at all, if the copper of the Pacific yet becomes as great a subject of discord and dissension as the ebony of the Atlantic.

我々の国は中国人が来る前から、既に雑多なものになっていた。大西洋の向こうから来た黒人が社会の混乱と源になったように、太平洋の向こうに住む黄色人種が、これからここで同じような問題を引き起こすことを、私は少しも疑わない。 

Hinton Helper, 1885

 

もう、いきなり暗雲立ち込めるような始まりで、この先、覚悟して見ないとなあ・・・という気にさせられます。

 

日本人が移民してくる前
既に中国人が最初の東洋人として移民しているのですが、さらに遡ると黒人が連れて来られ、ヨーロッパから続々と移民として渡って来ていました。

1492年にコロンブスが新世界を発見して以降(もしかしたらそれ以前にも)漂流者や無名の冒険家もいたかもしれませんが、正式な移民という形では、1620年イギリス南西部から現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ったメイフラワー号が思い浮かびます(違ったらごめんなさい)。多くは英国人でしたが、その後、欧州から続々とアメリカを目指す人達が増えるきっかけとなりました。当時、アメリカに渡る人は、貧しかったり、迫害から逃れる人達でした。


同じ頃、北アメリカへの大勢の移民の中でおそらく唯一、自らの意志に反し、強制的に奴隷として多くのアフリカ人が移住させられていました。それは、奴隷輸入が法律で禁止される1808年まで続き、その数は50万人にも及ぶとされています。
自由や豊かさを求めて移民した人ばかりではないとはいえ、これも非常につらい歴史です。



 

さて、その頃の日本はどうしていたか?

1620年というと、江戸時代の初期。元和6年、第2代将軍・徳川秀忠の時代。キリシタンが弾圧されていた頃ですね。つまり、日本人は200年以上遅れての渡米ということになります。日本人にとっては新天地でも、既にその頃、アメリカは人種問題を抱えていたので、上記のヒントン・ヘルパー氏の言葉は、非常に現実的なアメリカ側の視線だったのですね。

ちなみに、アメリカへの移民の最初の最盛期は、1840年から1860年頃までだそうです。


 

最初にアメリカに移民してきた東洋人
最初に移民してきた東洋人は中国人でした。アメリカのゴールドラッシュの時代にやってきて、過酷な肉体労働に従事していました。肌の色などを理由に様々な激しい差別や迫害を受け続け、1882年の「中国人排斥法」ができたことにより、中国人の移民は”禁止”されるようになります。
その結果、労働者(過酷な労働を低賃金で行う人)不足が生じ、1885年から正式に日本人も受け入れるようになりましたが、1860年後半に、ハワイやカリフォルニア州に渡った「先駆者」もいました。いずれにしても東洋人は、欧州からの移民とは異なり、人種差別以外にも法的な差別もありました。

特に、一世たちは差別的な連邦法によって、アメリカの市民権を取得ができないため土地を買ったり借りたりすることもできない、選挙権もなく、政治的な力もない状況にありました。この外国人土地法が撤回されたのは、1950年代に入ってからでした。


当時、日本は本当に貧しかったとはいえ、こうしたことを日本政府は知ってて移民を奨励して送り続けたのか?と思うと、もうのっけから胸が詰まる思いがしました。日本も明治維新で大混乱の最中、土地や税制の改革で、特に地方ではますます貧困に拍車がかかっていました。日本政府、後には民間の斡旋会社、個人的につてを頼ってなど方法は様々ですが、農家の次男、三男など若い男性が職を求めて渡米しました。ただ、政策的にはどさくさ紛れだったのかもしれません。
ただ、アメリカ側が外国人土地法を制定させたとき、当時の日本政府は、このような一世に向けられた差別的な措置に対し、抗議を申し入れています。

 


 

日本人がアメリカに初めて渡ったのは
ところで、実際に日本人がアメリカに初めて渡ったのはいつだろう?
遭難者なので、入植目的の移民とは異なりますが、まず思い浮かぶのが「ジョン・万次郎」。1841年に漁に出たまま遭難し、アメリカの捕鯨船に救助され、そのままアメリカ本土に渡ります。
次に「浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)」。1851年に航海中の難破により、アメリカの商船に助けられそのままアメリカ本土で暮らし、日本人として初めてアメリカ市民権を取得しました。

なので、あくまでも現時点で、日本で公式に知られている最初の日本人移民は、1869(明治2)年に会津戊辰戦争で敗れた侍22人。再起を図るためカリフォルニアにある小高い丘に若松コロニーを建設しますが、残念なことに、わずか2年で崩壊してしまいました。当時カリフォルニアはゴールドラッシュ全盛期で、金の採掘現場から流れ出た汚染物質や水不足によって、育てた作物が枯れてしまったことが原因だとか。それにしても、当時としてはすごい挑戦だっただろうなと思います。

※なんでもそうだけど「誰が最初」って意外とアテにならなくて、この1年前に日本人入植者がいたと、サンフランシスコ・クロニクル新聞に掲載されているそうです。塚原昌義、松本寿太夫(万延元年遣米使節、小野友五郎遣米使節に参加した幕臣)らとされています。あとからまた何がでてくるかもしれません。

 

こうしたコミュニティや暮らしができるようになるまでの苦労はどんなものだったか。


 

最初に移民した一世たち
夢を抱いて渡ったとはいえ、出稼ぎとして渡り、ある程度お金が貯まったら帰国するつもりでいた人が多かったといいます。大部分の一世は、1885年から1924年までの間に渡米した人たちです。

実際どのくらいの人が渡ったかというと、1861年から1940年の間に、約27万5千人の日本人がハワイとアメリカ本土に移民しました(それでも欧州からの移民の数に比べればずっと少ない)。

その途中、1908年には日米紳士協定が結ばれ、日本側が自発的にアメリカ行きの旅券交付の停止、1924年、日本人を標的にした移住禁止の条項が、アメリカ連邦法・アメリカ国内における移民に対する法律に加えられました。反日感情は高まるばかりでした。

当時、移民した日本人たちの暮らしは本当に厳しいものだったようです。仕事は、ハワイのサトウキビ畑などの農業、林業、漁業、酪農、缶詰工場、材木所など。次第に白人の家庭で住み込みとして働いたり、鉄道敷設などの仕事もしたそうですが、いずれも過酷、単純、低賃金・・・、豊かな国の人はやりたがらない仕事です。バブル期の日本にも「3K」という言葉がありましたね。

また、働くといっても職場が定まらず点々とせざるを得ないことも多かったようです。単に劣悪な環境だったため逃亡したとか、わけわからず解雇されたとか、季節労働者としてしか雇ってもらえないなど、理由はさまざまです。英語もできないから情報も得られない、意思疎通もままならない、それでも朝から晩まで身を粉にして働いて働いて、わずかな賃金を貯めていったそうです。それでも故郷に錦を飾れた人がいったいどれだけいたか。

そこまでして頑張る精神とか、故郷に錦を飾るとか、今の日本人にはない意識ですよね。「そんな生活しているなら、日本に帰ってくればいい」といえるくらい日本は豊かになったわけですが、当時の日本はそんなじゃなかった・・・・

 

写真花嫁
若い独身男性が多く移民しましたが、「家庭を持つこと」もなかなか困難を極めていました。一世の男性達の中には、日本に一時帰国して結婚し、花嫁を連れてアメリカへと戻る人もいましたが、お見合い写真と身上書だけで花嫁を決める「写真花嫁(picture bride)」という制度で結婚した人も多くいました。この制度によって、1920年までに約2万人以上の日本女性が、写真でしか見たことのない男性と結婚するために海を渡りました。
来て見ると、男達が写真よりずっと年を取っていて、聞いていたような家も財産もなかったという場合が往々にしてあったようです。結婚を拒んで、帰国したり逃げたりする女性もいた一方、多くの女性はその状況を受け入れて家庭を築いていきました。円満な人もいましたが、多くの問題を抱えていたケースもあったようです。
映画「ピクチャー・ブライド」「OKGESAMA DE(おかげさまで)」の題材にもなっています。

 

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故郷に錦は飾らなくても、わずか20年くらいで異国のロサンゼルスにこんな町を作ってしまうくらい働いたのですね。右も左もわからず、ボロ小屋でも住めればいい方で、毛布だけ持って野宿するような生活を何年もした人もいるくらい貧しく、差別や迫害を受けながら、ですよ。「働くことがすべてだった」「働くことが生きることだった」という言葉が残されています。


 

仕方ないことですが、博物館の主訴は「二世たちのこと」です。
アメリカで生まれ、アメリカの国籍を持っているのに・・・というところがキモ。なので一世たちの思いや苦労についての展示や説明はごくわずかです。もちろん、一世たちがあまり語りたがらなかったとか、記録を残さなかったとか、財産と共に没収や廃棄をされているからなど、いろんな理由があるからかもしれませんが。

常設展ではなく企画展で垣間見えることもあります。また、図書室に多少の資料はあると思います(見た感じ少なそう)。むしろ、どうして一世たちが渡米したのかという背景であれば、日本で移民資料を漁った方が調べがつくかもしれません。


一番いいのは、一世たちに聞けることなんですけど、時代的にそれは叶わず。口述記録が残っていればいい方かもしれません。

 

別に今、大変な時代に生きているわけじゃないと思っていても、残しておけばよかった、もっと聞いておけばよかったと後で痛切に感じることがあるかもしれないな、でも後にならないとわからないんだよな・・・と思いながら書いています。続きます。

 


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