LA|全米日系人博物館(2):強制収容所の建物

2階が常設展示のコーナーです。階段を上っていくと、途中からナントモいえない”すえた臭い”が漂ってきます。視界に飛び込んできたのは「強制収容所」のレプリカ?・・・と思ったら、本物でした。


他州の砂漠みたいなところに放置されていたものを、ロサンゼルスまで運んできたそうです。



まだニオイが完全には取れないらしく、何か吹き付けているとかではないらしいです。
博物館っていくらすごい展示物があったとしても、温度やニオイの再現はどうにもならず、それがないがゆえにリアリティに欠けることも多いですよね。偶然とはいえ、どうにかなっちゃうこともあるんだ、っていうのが驚きです。



急ピッチで手荒く造られたバラック。この粗末な建物が、日系人たちに与えられた住居でした。仮設ではなく、戦争が終わり解放されるまでの間、アメリカ側によってちゃんとしたものに建て替えられることはありませんでした。
また、収容所の多くは砂漠地帯だったため、昼間の寒暖差も激しく、暖も涼も取れないどころか、砂塵が部屋の中にも容赦なく吹き込むような状態。そのうえ、一部屋に複数の家族が同居したり、共同トイレに仕切りがないなど、プライバシーへの配慮もまったくなかったそうです。



部屋の中にあるものといえば、不十分な粗末な家具と、自分たちの手で持てる分の荷物のみ。食料は配給制限が行われ、日本語の新聞は禁止。あまりに劣悪で過酷な環境とひどい扱いに、書き連ねているだけでも気が滅入りますが、命を落としてしまった方も随分いらっしゃるようです。

すごいのは、日系人たちはアメリカ側に交渉して、自分たちの手で生活環境を改善していきました。このあたりはまた詳しく書きたいと思います。



ちょっと暗くなってくると、何だか妙に物悲しいですよね。バラックの上に天窓を作って、自然光を当てる演出もすごい。



こんなことを書くと、日系人の方が気を悪くすると思ったけど、実際にあった大切なことなので書いておきます。若かりし頃、アメリカ旅行から帰ってきて収容所生活を体験された日系人とお話する機会があったことなどを話したことがありました。その時の反応。

「ユダヤ人収容所と違って、自分たちで食事を作ったり、野球をやったり、結構自由だったんでしょ?」

「いくら西海岸に行ったからって、そんな過酷な体験をした人にそうそう会えるわけがない(せいぜい千人くらいだと思ってる)」。

 

まあ、なんというか・・・。いろんな人がいるから、単に私が話す相手を間違えただけかもしれないけれど・・・。若き頃の失敗です。




同時に「そういう体験をするのは、一部の特別(不運)な人たち」「自分たちはそういう目に遭わない、だから関係ない」って思ってるような、ちょっと突き放したような感じがしたんですよね。なので、日本人が日系人の歴史を知らず、理解がないことは本当なんだけれど、「日系人に対して関心がない」っていうのと、ちょっと違う気がしています(他のこともそうだから・笑)。


REMEMBRANCE PROJECT
http://remembrance-project.janm.org/index.html


911のテロが起きたとき、中東系やイスラム系の人々を飛行機に乗せるなという世論がわき上がりました。当時、ブッシュ前米政権の運輸長官だった日系米国人のノーマン・ミネタ氏は、日系人強制収容の時と同じことが起きていると感じ、自身の強制収容経験から、人種差別の悲劇を「絶対に繰り返してはならない」と強調しました。
最優先で差別防止に取り組んだそうです。

「未知のものを恐れるのが人間の本質だ。偏見は今後も続く。
同時テロは特定の人種を単純に同一視してはいけないということを教えた。
同時テロ後、イスラム系市民を強制収容するような事態は起きなかった。
1942年に米国市民である私たちを『ジャップはジャップだ』と
ひとくくりにした米国は、過去の経験からも学んだのだと思う。
若者には自らを隠さず、自身の言語や信仰に誇りを持てと言いたい。」

 

言葉の重みだけでなく、日系人であるミネタ氏がこのような要職に就き、このような発言ができるようになるまでの間、日系社会や日系人たちにどれほどの多くの困難があり、どんな努力をしてきたんだろう?という想像力も失いたくないなと思います。


日本から高校生が修学旅行で来館。非常に良い!と思いました。

 

つらいことを忘れる、聞かないというのもひとつの生き方だけど、経験してしまったことや知ってしまったことを力に変えていく、自分なりにできることを考えていくというのも生き方だと思っています。どんな生き方を選んでもいいし、その選択はいつ変えてもいいとも思っています。

でも実際のところ、非常に勇気がいることですよね。多くの日系人は収容所に入れられたことを「恥」とも思っているため、子供達に語ることもなく、子供たちをアメリカ人として育てていくことを選びました。選んだというより、知れば知るほど「選ばざるを得なかった」と言った方が近いような気もしていますが。

この先、つらい話も出てきます。
つらい話は聞きたくない方は、無理に読まないでください。辛い内容があっても読んでみようと思った方は、次回以降も読んでみてください。時間はかかりますが、少しずつ書いていきます。


99年の愛―JAPANESE AMERICANS

ストロベリー・デイズ―― 日系アメリカ人強制収容の記憶




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