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2018-06-10

横浜|JICA海外移住資料館/世界の料理:ポートテラスカフェ

今では海外移住も人生の選択としてありの時代だし、日本人の海外での活躍もたくさん聞かれるようになりました。海外旅行先で日本人や日系人に親切にされた方も多いのでは?


日本人の海外移住は、1866(慶応2)年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれてからとされています。今のような情報も得られない時代に異国に渡った彼らはどのような体験をし、どんな思いをしながら何を築き、紡いできたのか。

2018-05-27

Hawaii|60年代テイスト、レインボー・ドライブイン(Kapahulu)

1960~70年代あたりのアメリカのドラマに出てきそうなレトロな店構え。1961年創業「レインボー・ドライブイン(Rainbow Drive-In Kapahulu)」。



1921年に世界初のドライブ・インのチェーン店がテキサス州・ダラスに登場して以来、車社会のアメリカではあっという間に広まり、最盛期は1950年~1960年代。このお店ができたのも、まさにその頃。

2018-05-23

Hawaii|U.S. Army Museumー陸軍博物館(3)

ほかには、第二次世界大戦中のこと(対日本、対欧州)、ハワイの人々の暮らし、日系兵の活躍、朝鮮戦争、ベトナム戦争についての展示が続きます。プロパガンダ的な写真もあったり、武器がひたすら飾られたり、日本については説明に困っている感じの展示もありました。

 そんな中、まさかハワイにある米陸軍の博物館で見るとは思わなった伝単「桐一葉(きりひとは)」。聞いたことはあったけど、現物を見るのは初めてです。

2016-11-30

LA|全米日系人博物館(8):日系人部隊

 前回「全米日系人博物館(7)」の続きです。1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内でも志願兵の募集が始まりました。部隊名は「第442連隊(442nd Regimental Combat Team)」。

軍服は思ったより小さく、当時の日系二世も小柄だったことがうかがえる。

 

忠誠登録で「YES」と答えた日系人は87%もいたにも関わらず、当初、兵役を志願し入隊できたのは800人くらいだったそうです(その後は増えます)。

2016-11-29

LA|全米日系人博物館(7):忠誠登録

前回「全米日系人博物館(6)」からの続きです。収容所が開設された直後から、アメリカに忠誠心があると認められた日系人に対して、収容所を出て軍事制限地区から離れた地域に定住させる施策(「再定住」という強制的な同化)も行っていました。これにより、戦争による労働者不足を補うために一時的に収容所の外にある農園や工場で働くことができた人もいたそうです。


そしてもうひとつ、二世たちが収容所から出る方法がありました。それは「アメリカ陸軍への入隊」でした。

2016-11-28

LA|全米日系人博物館(6):強制収容所とその記録

 前回「全米日系人博物館(5)」からの続きです。1942年から1946年まで、アメリカ政府は、約7万人のアメリカ国民(二世)を含む、約12万人の「日本人の血を引くすべての民間人」を拘留するため、内陸地の砂漠や沼地や荒野に10箇所の強制収容所を建てました。集合センターから日系人が送られた環境はとても厳しいものでした。


有刺鉄線に囲まれ、監視塔には銃を持った兵士が立ち、その視線や銃口は収容されている日系人に向けられていました。すきま風が入り込むような粗末なバラックに、他の家族と詰め込まれるような相部屋、仕切りのない共同シャワー室や共同トイレ、食堂での粗末な食事・・・衛生状態も悪く、感染症が流行ることもあり、気候も厳しいため体調を崩し、命を落としてしまう人もいました。

2016-11-27

LA|全米日系人博物館(5):強制立ち退き

 前回「全米日系人博物館(4)」の続きです。1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃が始まりました。当時アメリカ本土で生活していた日系人は約12万7000人、そのほとんどが西海岸の3州(オレゴン州、ワシントン州、カリフォルニア州)に集中し、特にカリフォルニア州には9万3000人の日系人が住んでいたそうです。

当時のアメリカの軍当局が日系人の立ち退きを命じた掲示。
All Persons of Japanese Ancestry =日本人を祖先にもつすべての人々、とある。

1942年2月に当時のルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名したことにより、アメリカ国籍を持つ二世も含め、日本人の血を引く住民はすべて、移転所に出頭するよう告知がなされました。これにより、これだけの日系人がたった数カ月のうちに、アメリカ本土の内陸部(すごーく辺鄙なところ)に作られた10カ所の強制収容所に送られることになりました。

2016-11-25

LA|全米日系人博物館(4):二世への期待、真珠湾攻撃

前回「全米日系人博物館(3)」の続きです。 一世達は、祖国である日本への強い思いや絆を保ち続け、一部の地域に集まって生活し、助け合いながら各地でいくつもの日本人のコミュニティーを作っていきました。そこには日本語学校、寺院や教会等の施設もありました。けれど、皮肉なことに、一世達の努力や成果、成功は、周囲のアメリカ人達の反日感情と恐れを増大させることに繋がりました。



そしているうちに次の世代も生まれ、育っていきます。一世の移民のアメリカ生まれの子供達は、法律上は正式なアメリカ市民として認められていました。

2016-11-24

LA|全米日系人博物館(3):そもそもの話、移民って

 前回の「全米日系人博物館(2)」からの続きです。博物館では一部のキャプションに日本語訳があるので、大まかな歴史は英語が苦手でもわかると思います。

それに加えて日本の戦争関連の博物館や資料館に比べると(国が豊かだから品質がいいのと、空襲等で焼けていないこともあって)、展示物の保存状態が非常によいこと、量が多いこと、写真も多いので、非言語でもわかりやすいと思いました。そんなところにも戦勝国のゆとりを感じます。

2016-11-23

LA|全米日系人博物館(2):強制収容所の建物

2階が常設展示のコーナーです。階段を上っていくと、途中からナントモいえない”すえた臭い”が漂ってきます。視界に飛び込んできたのは「強制収容所」のレプリカ?・・・と思ったら、本物でした。


他州の砂漠みたいなところに放置されていたものを、ロサンゼルスまで運んできたそうです。

2016-11-22

LA|全米日系人博物館(1)

リトル・トーキョーにある「The Japanese American National Museum(全米日系人博物館)」に行ってきました。


日系人の歴史、明治時代の官約移民から、日系人がアメリカで権利を認められるまでの歴史全般についての展示がされています。建物の大きさの割に展示スペースはコンパクトですが、非常にわかりやすいと思いました。

2016-11-16

LA|米国内最大規模の日本人街:リトル・トーキョー(2)

 ダウンタウンを歩いていると町の歴史は浅くとも結構古い建築物も残っているなあと感じることも多いのですが、リトル・トーキョーのごく一部に古い町並みを敢えて保存している地区がありました。


真ん中にある赤い「CHOP SUEY」と書かれた看板は書体からしていかにも古そうな感じ。この「ファーイースト・チャプスイ・レストラン」は、1925年開店のアメリカ式中華料理レストランで、チャップリンも常連だったとか。

2016-11-15

LA|米国内最大規模の日本人街:リトル・トーキョー(1)

LAにあるリトル・トーキョーは、アメリカ国内で最大規模。日本では既にレトロ扱いになっている「櫓」や「瓦」ありました。東京を意識して作ったわけではないだろうけど、機能や拠り所としての「東京」だったのかなと。



以前に比べて、日本語が聞こえてくることはグッと減っていました。

2016-08-24

映画|Go For Broke~ハワイ日系二世の記憶(日・2013年)

 自主映画会にお誘い頂き「Go For Broke~ハワイ日系二世の記憶(日・2013年)」、ハワイの日系アメリカ人の歴史のお話です。

日系人の歴史をよく知らずに過ごし、今思えば学校でもほとんど教わらなった気が(←覚えてないだけ?)。若い頃、米国に行ったとき、よく知らなくて恥をかいたり、「日本人は自分たち日系人のことを何も知らないんだな」と複雑な気持ちにさせたこともあったかもしれません。