神田というとつい神保町の方ばかり行っていて、JR神田駅周辺に来たのは久しぶり。このあたりは、北側の神田川、南側の日本橋川に挟まれた庶民の町で、低中層ビルが密集するオフィス街。西口に降りれば大手町に近く、北口に降りれば秋葉原に近い。
神田というとつい神保町の方ばかり行っていて、JR神田駅周辺に来たのは久しぶり。このあたりは、北側の神田川、南側の日本橋川に挟まれた庶民の町で、低中層ビルが密集するオフィス街。西口に降りれば大手町に近く、北口に降りれば秋葉原に近い。
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1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災による建物の倒壊で、山手も瓦礫の山に。駐留していた外国人は神戸など他の都市への移住が相次いで、震災前に7650人いた外国人は翌年には2156人まで減少。そこで横浜市は復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設しました。
この山手234番館は外国人向けの共同住宅として、現在の場所に建てられました。
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1853(嘉永6)年の黒船来航から5年、1858(安政5)年に日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約が締結されたのを機に、1859年7月1日(安政6年6月2日)に日本初の近代国際貿易港として横浜港が開港しました。
居留地の中でも、山手居留地は住宅地として発展、1899(明治32)年に居留地撤廃されたものの、割とそのまま残っていたようですが、1923(大正12)年の関東大震災で壊滅状態に。現在残っているのは関東大震災後に建てられたものです。
1984(昭和59)年に廃線になったJR相模線の支線、通称「西寒川支線」の跡に行ってきました。西寒川駅は寒川駅からおよそ1.5km、緑道や公園として整備され、レールも残っています。桜の季節は美しい風景が広がります。
九段のシンボル的な建築のひとつ「九段会館(旧軍人会館)」、独特の雰囲気がありますが、昭和御大礼記念事業の一環として計画され、建設の際には昭和天皇からの御下賜金もあったそうです。ここだけ異空間感じです。
1936(昭和11)年に起きた「二・二六事件」の司令部が置かれた場所でもあり、その翌年には、清朝最後の皇帝の弟・愛新覚羅溥傑(ふけつ)と嵯峨浩(さがひろ)の婚礼が行われたりもしているので、おめでたい意味でも歴史的です。
前回の「全米日系人博物館(2)」からの続きです。博物館では一部のキャプションに日本語訳があるので、大まかな歴史は英語が苦手でもわかると思います。
それに加えて日本の戦争関連の博物館や資料館に比べると(国が豊かだから品質がいいのと、空襲等で焼けていないこともあって)、展示物の保存状態が非常によいこと、量が多いこと、写真も多いので、非言語でもわかりやすいと思いました。そんなところにも戦勝国のゆとりを感じます。