LA|全米日系人博物館(4):二世への期待、真珠湾攻撃

前回「全米日系人博物館(3)」の続きです。 一世達は、祖国である日本への強い思いや絆を保ち続け、一部の地域に集まって生活し、助け合いながら各地でいくつもの日本人のコミュニティーを作っていきました。そこには日本語学校、寺院や教会等の施設もありました。けれど、皮肉なことに、一世達の努力や成果、成功は、周囲のアメリカ人達の反日感情と恐れを増大させることに繋がりました。



そしているうちに次の世代も生まれ、育っていきます。一世の移民のアメリカ生まれの子供達は、法律上は正式なアメリカ市民として認められていました。

なので、子供の名義で土地を購入したり借りたりすることもカリフォルニア州ではできたといいます。日本では1924年まで、帝国憲法が「世界中のどこでも父親が日本人であるならば、その子供も日本人である」と定めていたため、二世たちは二重国籍という状態になっていました。

 

今でも、ミドルネームに日本名を付ける人もいるという。
5世でモロに日本名の「ミツコ(仮名)」ちゃんにも出会った。

 

また、この年にはアメリカでは『外国人土地法』が制定されました。その2か月前に『排日移民法(正式名:ジョンソン・リード法)』も制定されていたため、日本人の移民は6月で終了。表向きは日本人を排斥するための法律ではなかったものの、日本から新たな若い労働者や花嫁を迎えることもできず(断種政策ともいえる)、一世たちはアメリカで帰化することも、土地を所有することもできないなど、厳しさは増すばかりでした。

こうした差別や排斥へと傾いていったのには、一世たちがアメリカの生活になかなか溶け込めず、日本人同士で集まることが多かったからだとも言われていますが、世界情勢や政治的な背景もありました。
日露戦争(1904~05年)で日本がロシアを破った後、『黄禍論(Yellow Peril:おうかろん、こうかろん)』が広がったこともありました。
さらに、1930年代の日本による中国への侵略は、アメリカ国内で日本人に対する不信感を増長させ、国同士の緊張の高まりは、日本人の血を引く人達への反感をますます強める結果となり、危険な敵国人としてのイメージも報道されるようになりました。

それでも一世たちは努力を続けていました。けれど長い間、どんなに努力してもアメリカ人として認められず、差別され続ける苦しみがあったため、アメリカ国籍を持つ我が子(二世)に未来を託していきます。
日本人の血を引く二世たちがアメリカ社会に受け入れられ、侮蔑を受けることなく、信頼や尊敬を得るためには、高い教育や教養が絶対に必要だと考えました。そのために一世達は、自分たちのものは最小限にし、多くの犠牲を払い、とにかく子供の教育に力もお金も注いでいきました。

二世達も親の苦労や勤勉さも見ているし、期待に応えようと努力を重ねたため、二世達の大学進学率や奨学金獲得率は非常に高かったと言われています。けれども実際には社会的地位の高い職に就くことは難しかったそうです。

 


 

そして、1941年12月7日(日本時間では8日)、日本軍によるアメリカ・ハワイの真珠湾基地への攻撃が始まりました。この瞬間から、一世たちは敵性外国人とみなされ、二世、三世も侮蔑の目で見られるようになりました。


 

真珠湾攻撃当日の夕方から、アメリカ連邦捜査局と移民局の係員は、家々を廻り、映画やドラマでも描かれるように、日系社会のリーダー達、アメリカに批判的であるとみなされた人達を次々と逮捕していきました。わずか3日の間に1291人、翌年2月上旬までに2192人が逮捕されたといいます。
逮捕されなかった日系人たちに対しては、財産の凍結、生命保険の停止、突然の家宅捜査、武器やカメラなどの提出、夜間の外出禁止、長距離移動の禁止の命令が立て続けに出されました。日系人社会は大パニックに陥ったそうです。既にアメリカの軍や企業で働いていた日系人は解任、解雇、免職(よくても異動)をさせられました。

真珠湾攻撃後の数ヶ月間、各メディアは「西海岸の日系人達は大日本帝国の手先となって活動を行っている」いった根も葉もない報道を繰り返し行いました。特にカリフォルニア州の新聞各社の報道は、酷かったそうです。

こんな状態の中、日系人たちはどんな思いで暮らしていたのか。この間に、政府と軍によって日系人の強制収容の準備が進められていたのです。

 


 

この話を初めて聞いたとき、真珠湾攻撃の当日から逮捕できるなんて随分と手際がいいなあと思っていました。

1930年代、情報各局は「戦争の際にアメリカの国家安全を脅かす可能性のある外国に関する情報」を収集。連邦捜査局、アメリカ海軍や民間の捜査機関は、危険とみなされるつながりを持つ外国人達の身上調書や名簿を作成していました。ルーズベルト大統領(任期:1933年3月4日 – 1945年4月12日)は、日系一世と二世に関する情報報告も指示していたそうです。
ただ、その結果「開戦の際、日本人の血を引く人達は他のどのグループと比べても、特に危険度は高くはない」、捜査員達も「ほどんとの一世は、合衆国に対して消極的ながらも忠実である、二世はアメリカ市民としての強い自覚を持っている」という見解を示していたそうです。日本と同盟国だったドイツ人移民とイタリア人移民に対しては、特別人物だけ厳密調査ししただけだったそう。

実際、スパイのようなことをしていた日系人がいたのか?
というと、第二次世界大戦中に日本政府の工作員が20人ほど逮捕されたものの全て白人で、日本人の血を引いた情報部員おらず、戦前から戦後にかけて、スパイ行為や妨害行為で有罪判決を受けた日系アメリカ人は一人もいないと言われています。

 

真珠湾攻撃によって、これまで十分苦労してきた日系人は、さらに過酷な状況に追い込まれることになりました。特に一世たちにとっては、信じがたい出来ごとだったと思います。

 

白人や黒人から見たとき、東洋人のうちどれが日本人でどれが中国人か見分けがつきません(私達が北欧の人を見て、見分けられないのと似たようなものかも)。日本人だと分かった途端に連行されてしまうため、中国人たちは自分が日本人に間違えられないように振舞いました。一方、日系人たちは中国人のフリをすることもあったそうです。
そこで中国人と日本人の顔つきの違いが掲載された記事がありました。

・・・他の写真なかったのかなあ。


ほかにも、それまで着物を着ていた一世の女性達が洋服を着てハイヒールを履きだしたりもしたそうです。そうしたエピソードはたくさんあり、自身の身やコミュニティを守るためにどれほど必死だったのかが伺え、足元がすくむような思いがします。

 

1942年2月19日、大統領令9066号が署名されました。

 

 

続きます。

 

*  *  *  *  *

【追記:2021年5月】
コロナ禍のアメリカで、アジア系に対する差別や暴力が深刻化しているというニュースが日本にも流れてきています。「黄禍論」の歴史が、まさか今、蘇ってくるとは。
黄禍論は、「19世紀後半から20世紀前半にかけて欧米国家において出現した日本人脅威論」と言われているけれど、実は疫病の話題とも無縁ではありません。1882年に中国人労働者の移住を禁止した中国人排斥法が成立した背景には「中国人は、マラリアや天然痘、ハンセン病などの深刻な伝染病を持ち込む」という誤った情報が流れたこともあるといいます。
アジア系排斥の歴史があまり知られていないことに加え、国の最高指導者の発言が差別を助長してしまった・・・いったいこの79年という時間は何だったのかと愕然としました。日系人のみならず、他のアジア系にもそれぞれの悲しい歴史があります。日本にいるときは思わないのですが、アメリカの街を歩いていると日本人であるということ以上に「アジア系である」ことを意識させられます。
今、私は日本にいるけれど、ニュースを見ていて耐えられない。



 

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