LA|全米日系人博物館(5):強制立ち退き

 前回「全米日系人博物館(4)」の続きです。1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃が始まりました。当時アメリカ本土で生活していた日系人は約12万7000人、そのほとんどが西海岸の3州(オレゴン州、ワシントン州、カリフォルニア州)に集中し、特にカリフォルニア州には9万3000人の日系人が住んでいたそうです。

当時のアメリカの軍当局が日系人の立ち退きを命じた掲示。
All Persons of Japanese Ancestry =日本人を祖先にもつすべての人々、とある。

1942年2月に当時のルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名したことにより、アメリカ国籍を持つ二世も含め、日本人の血を引く住民はすべて、移転所に出頭するよう告知がなされました。これにより、これだけの日系人がたった数カ月のうちに、アメリカ本土の内陸部(すごーく辺鄙なところ)に作られた10カ所の強制収容所に送られることになりました。

 


 

収容対象になったのは、日本国籍の一世だけでなく、アメリカ国籍を持つ二世も含め、日本人の血を引く住民すべて。日系人のうち3分の1は一世で「帰化不能外国人」、3分の2が二世などアメリカ市民をさす「非外国人」という扱いでした。
ハワイ州にも約15万8000人の日系人が住んでいたものの、人口の40%近くを占めており、経済的にも影響が大きすぎるため、ごく一部の人以外は収容されることはありませんでした。その代わり戒厳令が敷かれ、危険と判断された日系人は逮捕されていったそうです。

 


 

強制収容所に送られる前に、まず16カ所に設置された集合センターに送られることになりましたが、いったいどこに連れていかれるのか、どのくらいの期間になるのかなど、一切知らされることかったそうです。準備に与えられた期間はわずか一週間。持参が許されたのは、手に持てるだけの所持品のみでした。

運よく財産管理を頼むことができた人はごく一部、多くの人達がこれまで働き詰めに働いてやっと手に入れた自宅や農場や店舗、事業などの全ての財産を失うか、二束三文で売り払うことになりました。とにかく売れるものはどんなものでも売ったそうですが、期日までに売れないものは焼き払ったり、そのまま置いてきたり。使い慣れたものも、愛着のあるものも、何もかも。
お世話になった人達、住み慣れた町や家との別れを惜しむ時間もろくになかっただろうと思います。


今よりずっと収納効率が悪く、重たいスーツケース。どれだけのものが運べたのか

 

展示品を見ながら、私だったら何を詰めただろうと考えてしまいました。でも、どこに送られるのか、そこがどんなところかもわからず、持っていくものを1週間で選ぶって無茶ですよね。他にもやることはたくさんあるのに。

 

(ここからちょっと話は逸れます)
強制収容による立ち退きとは違うのですが、東京でも戦争が始まると「建物疎開」といって空襲時の延焼を防ぐために、住んでいる家の立ち退きを迫られ、思い出のある家を壊された人達がたくさんいます。

また、実際に空襲に遭って命は助かったけれども、何もかもを燃やされてしまった人達もたくさんいます。うちの母方の明治生まれの祖父の話なのですが、女の子が生まれると、毎月少しずつお金を貯めたり、物を買ったりして、まだ幼いうちから少しずつ嫁入り道具を揃えていました。「嫁ぎ先で娘たちが肩身の狭い思いをしないよう、少しでもいい物を持たせてやりたい」とか、「嫁ぎ先への遠慮もあるし、嫁いだ後は、もうしてやれることはあまりないだろうから」という親心もあったと思います。ただ、当時の風習も、娘が3人いると家が傾くと言われるほど嫁入りにはお金がかかるものでもありました(もしかしたら日系一世の人達も同じように、教育費のほか、そうした日本的な準備もしていたかもしれません)。

戦争の色が濃くなって来ると、祖母は親戚を頼って先に少しずつ物を田舎に疎開させていたそうですが、小さな子供の手を引きながら、女手で運べるものはごくわずか。その後、自分たちも縁故疎開できることになりましたが、生活に必要なものと幼い子供達を運ぶことが優先されますよね。しかも大八車での移動です。
折り返し、祖父が残りの荷物を取りに東京に戻ったときに空襲があり、全て灰になってしまったそうです。祖父は手ぶらで抜け殻のようになって帰ってきて、半年近くへたりこみ、ボーっとしたり、うっすら涙を浮かべたり、食事も喉を通らない、何も手につかない状態だったそうです。
ただ、そういう状態だと世間に知られると非国民扱いされるため、近所の人に最近姿が見えないとか言われると、祖母は「仕事で東京に行ってる」とか「蔵や納戸の整理をしていたから」など誤魔化していたそうです。戦後、随分経ってからこうした話はあちこちで聞くようになりましたが、実際のところ結構多かったんじゃないかな、と肌身で感じています。
必死で身を粉にして働いて築いてきたものを奪われる、当時のお父さんたちの苦しみも相当大きかったはずですが、そのときのつらさを自分の口から子供達に話すことはなかったといいます。弱音を吐くようで嫌だったのかもしれないけれど、あの時代の人たちはそうなのかな、一世の人達はどんな思いだっただろう。

 

(話は戻ります。)
日系人たちは、決められた時間や場所に、きちんとした身なりでスーツケースを持って現れ、抵抗することもなく、登録番号を付けられ、武装兵士の監視の下にバスや軍用トラック、汽車で集合センターへと送られていったといいます。

一世たちは「仕方がない」「しょうがない」。二世たちは「アメリカに認められるため、忠誠を示すため」などの思いがあったそうです。国籍も育った環境も違うので当然かもしれませんが、文化的にも世代的にも大きな差がありますよね。このあと、こうした差はどんどん開き、さまざまな問題を生み出すことになります。

 

この写真の右側の道路を渡ったところに、現在、全米日系人博物館が建っている。

 

昔、日系人の方から聞いた話。自分の子供たちに、この頃の話をしたとき「何故、抵抗しなかったの?それは抵抗するべきでしょう?」と聞かれたそうです。公民権運動の後の教育を受けた子供たちは、自分たちとは全然違う考え方を持っているため、「自分の親ともそうだったけど、自分の子供とも、とても分かり合えないような大きな壁があるような感じね」と苦笑いしていました。多感な年頃にこうしたことを体験してしまうと、そうなるのかも。日本でも、たとえば大正の後半や昭和一桁生まれって何か重たいものを持ってる感じしますよね。

 

けれど日系人たちのすべてが全く抵抗しなかったわけではなく、多くの個人や団体が、自由の喪失と権利の剥奪に対し、さまざまな方法で抗議を行いました。
たとえば、夜間外出禁止令と排除命令に対し、ゴードン・ヒラバヤシミノル・ヤスイフレッド・コレマツミツエ・エンドウの4名が訴訟を起こしました。アメリカ最高裁判所での審議に至りました。エンドウ氏以外の3名は有罪となりましたが、エンドウ氏の案件は、後に収容所の閉鎖につながったと言われています。ただこのとき、裁判所は「強制収容が違法である」とは認めませんでした。
また日系人の労働者達は危険で不平等な労働と生活条件の改善を求めて嘆願書を出したり、ストライキやデモを決行、収容所内で暴動事件にまで発展したこともありました。


ところで、真珠湾攻撃以降、日本人や日系人に対する敵意を向け、全員追放しようという世論の圧力は高まったとはいえ、アメリが側にはそれに反対する動きはなかったのでしょうか??何かが動くと反対のベクトルにも動きが出ると思うのだけど。

連邦捜査局と海軍情報局は集団追放の必要性を認めておらず、司法省は立ち退きは基本的人権の蹂躙にあたるとしていました。また、1939年から1943年までコロラド州知事を務めたラルフ・ローレンス・カーン氏は、公然と日系アメリカ人擁護を主張した数少ないアメリカ人政治家のひとりで、日系人の強制収容にも一貫して反対していたそうです。
そうしたことがあったにもかかわらず、フランクリン・ルーズベルト大統領は、「日本に民族的つながりを持つ者達は、遺伝的に信用のおけない存在である」とする陸軍高官に耳を傾けたと言われています。



日系人が送られた集合センターは、競馬場や家畜品評会場や、展示会会場などに建てられた仮設の粗末な造りで、非常に劣悪な環境だったそう。南カリフォルニアに居た日系人たちは、現在の「サンタアニタ競馬場」に入れられたそうです。既に財産やそれまでの暮らしなどさまざまなものを失ったというのに、自由も誇りも奪われた生活を強いられました。

約100日間収容された後、内陸地の遠く離れた辺鄙なところに急ごしらえで建てた全米10カ所の常設の強制収容所に送られることになりました。 


続きます。


サンタアニタ競馬場
日本の感覚で地図で見ると、うっかり「Pasadena(パサデナ)近いじゃん」とか思いそうだけど、アメリカの地図だから、距離感がね・・(笑)。町のはずれで、すぐそこは山です。



*  *  *  *  *
<編集後記>
カリフォルニア州は一番差別や強制的に何かをされたのが一番多かった州です。たとえばワシントン州シアトルでは、開戦当初の地元新聞は非常に冷静でシアトル市民に「国内に住む日本人は開戦とは何のかかわりもないので、非難しないように」と呼びかけいました。1カ月か1カ月半くらいの間は静かで、シアトル市内では団体や個人が、日本人に危害を加えた等の物騒な話は聞くことはなかったそうです。
ただその後、新聞が反日的な記事を書きたて偏見を煽り、町の雰囲気が徐々に険悪になっていったそうです。「アメリカの報道機関が無責任に扇動し世論を焚きつけなかったら、少なくともあのような強制はなかったのではないか」そういう意見は決して否定できるものではありません。戦争にこうした報道はつきもので、日本でも敵国を鬼畜呼ばわりしていましたし。
そういう意味では日頃から私達は、単なるうわさ話から何から、いろんな情報に翻弄されているのがわかりますよね。戦争はもう起きて欲しくはないけれど、インターネットやSNSや画像の加工技術などが発達しているがゆえの情報戦みたいなものになるのでしょうか。


 

 

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