Thailand|泰緬鉄道の旅(4):カンチャナブリ慰霊碑

泰緬鉄道の乗車前に、旧日本軍によって建てられた「カンチャナブリ慰霊碑」にもやってきました。ガイドさんが「せっかく来たのだから、お参りしたいでしょう?」と。


何だか仏教国らしいけど、この慰霊碑のお参りを組み込んでる現地ツアーは、それほど多くないそうです。

「これね、日本人が作って日本人が管理しているの。毎年お坊さんがお経をあげてる」。そこだけ聞くと、日本人のためにだけに建てたものと思ってしまうけど、建設工事に従事した人たち、連合軍捕虜、労務者、軍属のすべて慰霊しているそうです。


入口の銘板にはこう書かれています。

この慰霊碑は、第二次大戦中、泰緬鉄道建設に従事し亡くなられた連合軍並びに関係の方々の霊を慰めるために、昭和19年2月当時の日本軍によって建てられたものであります。在タイ日本人有志は、毎年3月、亡くなられた方々の霊を慰めるためにここに集まり、慰霊祭を行っております



日本側の工事関係者の総数は、約1万名連合軍捕虜が6万名余で、亡くなった方は約1万2千名。アジア各地から集められた労務者は6万~十数万人、亡くなった方は4~7万人とも言われ、把握はかなり難しいようです(資料によってまちまち)。
日本軍の工事関係者は約1万名、そのうち約900名が亡くなっているそうです。


入口から見える石碑は正面を向いておらず、どこか別の方を向いているよう。


亡くなった方の大半は、1943年にいつもより早く到来した雨季に流行した伝染病(マラリア・コレラ・赤痢等)だったそうです。
労働者の生活や健康などについて適切な対応ができなかったこと、大本営が現地部隊に無茶な指令を出し続けたために、かなりの無理を強いたことはあったと思います。一方、その中で、できうることをしたのも事実だとは思います。だからといって、実際のところ映画に出てくるような虐待やそれによる死亡者がまったくいなかったと言い切れるのかどうかもまた難しいところだと思います。
(そう思うのがいいとか悪いという問題はまた別です)。



捕虜に対する残酷な扱いはよく知られていますが、終戦直前の1944(昭和19)年、旧日本軍は鉄道の拠点となったここカンチャナブリに、こうして労働者の慰霊碑を建立していたことはあまり知られていません。当時の鉄道建設隊長・高崎少将が建設したと聞きましたが、どんな方だったでのしょうか?気になっています。

コンクリートをはじめあらゆる物資が不足していた時代、工事現場なので他の場所より確保できていたかもしれませんが、それでも終戦直前に建てるのは容易ではなかったと思います。
そうしてまで建てる気持ちがあったこと、実行できたことを救いと思うこともできます。逆に、そのような気持ちがありながら、どうしてあんなことになってしまったのか、当時の状況や軍の命令がどれほど厳しいものだったか、どれだけつらいことを体験していたか、想像しただけで本当に嘆きたくもなってきます。


あの時代を知る人達が口を揃えること、

「とにかく戦争は、始めないことだ」


清掃も管理も行き届いている。お花も絶えないという。



戦後、タイの日本人会がこの碑の存在を知り、1963(昭和39)年から毎年、慰霊祭を開催し続けています。日本人会の会員、大使館関係者、商工会議所職員、自衛隊員のほか、日本からの個人旅行での参加もあるそうです。
僧侶の読経に続き、参加者が慰霊碑に向かいお焼香を上げるといった仏教式ではあるけれど、宗教・宗派を超えて、亡くなった方の霊や関係者の心が慰められるよう祈り続けています。

日本からの来た人たちが捧げたであろう、靖国神社のお札、浅草寺の観音経本、飛行機内で配られている水などが置かれていました。
また、敷地の四隅にはこのような壁があり、冥福を祈る碑文が日本語、英語、マレー語、タミール語、中国語、ベトナム語で刻まれています。




いつどこで、どういうことがあったと知ることも必要だけれど、継承で大切なことのひとつは、やっぱり「あなたたちのことは忘れないよ」だと思っています。



●タイ日本人会
https://jat.or.th/jp/press-release-detail.php?id=1053





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<編集後記>
戦後からたった数十年で海外旅行に気軽に行ける時代になったけれど、日本人の墓地をはじめ敵味方関係なく慰霊している場所に、自ら足を運ぶ人は少ないとは思います。
当時、軍に志願した人もいたけれど、たった紙1枚で招集され、若くして見知らぬ土地で命を落とした人達、その家族や友人たち、戦後すぐに駆け付けて遺骨を拾いたかった人、拾えなくてもせめてどんな場所で命を落としたのか知りたかった人・・・・。
代わりにはなれないけれど、こうして来られる時代に生き、その場所に来ることができた私達が、その方たちの分まで手を合わせるような気持ちでお参りさせていただいてもよいのではないかな、と思いました。
過酷な状況下、こうして手を合わせる場所を作ってくださった当時の方々に対して、感謝しかありません。


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