戦争のこと|ガラスのうさぎ像/二宮の空襲(神奈川県中郡)

子供の頃、「ガラスのうさぎ」は必読書のひとつでした。まだ12~13歳だった著者・高木敏子さんの目線で、空襲の悲劇などが描かれています。


高木さんの疎開先であり悲劇の場となってしまった二宮駅前に像が建てられていますが、抱いているうさぎの部分だけがガラスで作られています。そこが何とも切ない・・。

太平洋戦争の末期、連日行われていた空襲から逃れるため、敏子さんは二宮に疎開していました。
1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲によって東京本所区(現:墨田区)のガラス工場と自宅は焼失、母親と妹2人も行方不明になってしまいます。父親と自宅の焼け跡を探していたとき、半分溶けたガラスのうさぎを見つけます。江戸切り子の職人だった父親が、敏子と妹2人のために作ってくれたものでした。


碑文にはこう書かれています。

太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日
ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。この時 目の前で父を失った十二歳の少女がその悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争の悲惨さを強く印象づけました。この像は私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。
少女が胸に抱えているのは 父の形見となったガラスのうさぎです。
ここに平和と友情よ永遠に

昭和五十六年八月五日
「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会

http://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/gyosei_jigyosha/gyosei/shokai/1471339461480.html






二宮町の記録によれば、駅舎などで5名が亡くなっており、その中の一人が二宮に疎開していた娘を迎えにきた父親、つまり高木敏子さんのお父さんなのだそう。「ガラスのうさぎ」とは違う目線で、二宮の機銃掃射についてみてみると・・・


JR東海道線二宮駅。ホームの屋根の梁(はり)には、今も黒ずんだ弾痕が残る。
終戦の10日前。1945年8月5日正午ごろ、米軍の機銃掃射を受けた痕だ。町の記録では、駅舎などで5人が亡くなっている。その中に、二宮に疎開していた娘を迎えにきた父親がいた。残された13歳の娘が、後に「ガラスのうさぎ」を書く高木(旧姓・江井)敏子さん(80)だった。
「海の方から、敵の戦闘機が編隊を組んでやってきて、駅の上空を旋回し始めたんです」
二宮駅南口で写真店を営む野谷寿男さん(89)は、当時22歳。空襲を知らせるため、駅から150メートルほど離れた火の見やぐらに駆け上り、夢中で半鐘をたたいた。戦闘機は急降下して機銃掃射を繰り返す。駅に停車していた30両ほどの貨車を狙ったように見えた。
まもなく1機が駅を離れ、約25メートルの高さのやぐらにいた自分目がけて撃ってきた。弾は1発。やぐらの鉄柵がはじき返したが、操縦席の米兵の顔が紅潮し、鋭く光った目まで見えた。
「駅を襲った後の余り弾だったと思う。もし何発も残っていたら今私はここにはいないでしょう」
駅舎からは、白い煙が3カ所ほど立ち上った。待合室に駆けつけるとうめき声が響き、大人や子ども十数人が折り重なって倒れていた。
耳の障害で兵役を免れていた。町に残る数少ない男手として、けが人をリヤカーに乗せ、近くの医院まで何度も往復した。二宮駅の駅長の娘だった高木(旧姓・樫尾)恒子さん(79)は、海岸近くに借りていた家に母と妹といた。バリバリと耳をつんざく銃撃音に、ちゃぶ台の下で震えていた。外から「駅がやられた」という人の声が聞こえる。駅構内にある駅長官舎に急いで向かうと、土壁が崩れてもうもうと煙が上がっていた。畳、屋根、鏡台、オルガンにも3発……。8畳2間の官舎の弾の跡を数えると、130を超し、夜は天井から瞬く星が見えた。数日後、恒子さんは父親に呼ばれた。
「空襲の直前、お前の友達のお父さんが駅長室に来ていてね……」
その「友達」が、春に卒業した二宮小(国民学校)時代に同級生だった高木敏子さんだった。恒子さんの父親は昼食のために、ほんの数分前に駅長室を出て防空壕に入り、難を逃れた。「戦争中の生死は紙一重。私が彼女だったかもしれなかった」

(引用)朝日デジタル:(1)終戦10日前の機銃掃射:
http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20120807150280001.html



高木敏子さんは、こうした自身のつらい体験を、お子さんを寝かしつけた後、夜中に書き続けたそうです。自費出版した体験記の一冊が編集者の目にとまり、子供向けに加筆されたのが、この「ガラスのうさぎ」。一人でも多く戦争をしない心を育てたいという一心だったそう。

私が初めて読んだときからもう数十年が経っていますが、その間にドラマになったり、漫画になったり、アニメ番組になったりしながら、今でも読み継がれているんですね。驚きました。

西湘地区の被害状況を調べてみたところ、近く(二駅横浜寄り)の平塚市は空襲に遭っています(二宮も被害を受けています)。

平塚市は、1945(昭和20)年2月16日以降、艦載機等による空襲を受けていたが、同年7月16日深夜から17日未明にかけて、B29爆撃機133機による大空襲を受けた。平塚市街中心地を攻撃目標としたが、投弾範囲は現平塚市域のみならず現茅ヶ崎市・大磯町・二宮町・小田原市にまで及んだ。その後も数度の空襲を受け、特に軍需工場を攻撃目標とした7月30日の空襲では工場で働く人々に多くの犠牲者が出た。

(引用)総務省:平塚市における戦災の状況(神奈川県):
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_27.html



相手の顔が見えるほどの低空飛行して、飛行機の中から丸腰の市民を掃射するという狂気。戦争は人間にこんなことを平気でさせてしまうんですね。けれど、今も世界のどこかで丸腰の市民が銃弾を受けていたり、その危機に怯えている・・。
こういうことがなくなればいいのに。

ガラスのうさぎ―朗読絵本

ガラスのうさぎ (講談社英語文庫)


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【追記:2018年12月】
地元の二宮高等学校・英語総合探求クラスの学生さんたちにより、碑文が英訳されました。

The image "The Glass Rabbit"Memorial Inscription
On August 5, (1945) Showa 20, before the end of the Pacific War, here, the vicinity of Ninomiya station was attacked by several carrier-based planes, P51. Some citizens were killed in the attack, and a 12 year old girl witnessed her father's death.
The girl who was in deep grief decided to live strongly so as not to be defeated by her sadness. The war story "The Glass Rabbit", which described her life, not only did it deeply move us Japanese but also taught us a lesson on how terrible a war is.
This image was set up by the town's people with help both inside and out. This image is to hand down the importance of peace and also to admire the people and their friendship who kindly encouraged the girl. What she holds against her chest is the rabbit made out of glass which she treasured as a keepsake of her father.

May friendship and peace continue forever.
August 5, (1981) Showa 56

(引用)二宮町HP~The image "The Glass Rabbit" Memorial Inscription:http://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/soshiki/soumu/somu/shomujinji/s01/1530606890597.html


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