西湘|澤田美喜とエリザベス・サンダースホーム(大磯)

「エリザベス・サンダースホーム」という名前は聞いたことがあっても、どこにあるか、いつ誰が設立したのか知らない人も少なくありません。JR東海道本線「大磯」駅の改札口を出ると目の前に現れる木々に覆われた小山にあります。


終戦後の財閥解体で土地と建物は財産税として国に物納されましたが、彌太郎の孫娘である澤田美喜さんが私財の売却や募金を募って買い戻し、1948(昭和23)年、混血孤児のための孤児院「エリザベス・サンダースホーム」を創設しました。

孤児院出身の子どもたちのために、ホームの中に小学校・中学校も設立されました。また、澤田美喜さんは隠れキリシタンの遺物の収集家としても知られており、日本全国から集められた貴重な資料851点のうち370点あまりが沢田美喜記念館に展示・保存されているそうです。滅多に見られないものや、まだ調査中のものも含め、これほど充実した展示は他にはなく、日本全国からキリシタンの人が見学に来るのだそうです。

澤田美喜記念館の建物は、ノアの方舟をイメージして造られ、2階は聖ステパノ礼拝堂、1階はコレクション展示室となっています。

 

梵鐘は、開館と閉館のときに3回ずつ鳴らしている。
柱は、関東大震災で倒壊した旧岩崎邸の古材を利用して作られた。


 

澤田美喜さんは、1901(明治34)年、三菱合資会社社長岩崎久彌の長女、創業者岩崎彌太郎の孫として茅町本邸生まれました。3人の兄がいる4番目に待望の女の子として生まれたため、大変可愛がられたそうです。

今では想像もつかない貧富の差があった時代、岩崎家といえば桁違いのお金持ち。本邸だけでも9人の家族に50名のお手伝いさん+16名の庭師がいたと言われています。


財閥のご令嬢というとおしとやかなイメージですが、かなりのお転婆で竹を割ったような性格で、それだけでも相当のエピソードがあるようです。やりたいことはとことんやり通す性分だったこともうかがえます。

キリスト教との出会いは、はしかと百日咳が全国に流行し、大磯の別荘で病後の静養していたとき。付添で来ていた赤十字の看護婦が聖書を音読する声が耳に入り、衝撃を受けます。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と聞こえたその言葉を聞き違えたかと思った、敵を憎み、迫害する者を殺せ――ではないのか?と。しかし次の日も、またその次の日も「敵を愛せ」と聞こえてきたそうです。

敷地の小高い丘の上から見える風景。相模湾が見えます。


岩崎家としては娘を華族と結婚させたいが、美喜さんは「華族は自分が何もしていないのに、名前を傘に着て。そんな人と結婚したくない」と言い、外交官でクリスチャンだった澤田錬三氏とお見合い。結婚を決め、クリスチャンに改宗します。ご主人はものすごいジェントルマンで、美喜さんは相変わらずのお転婆で自由奔放というカップルだったとか。

華族の女性達は結婚するまでは自由がなく、結婚してからの方が自由だったそうで、庶民(特に農民)とは真逆だったのですね。

キリシタン灯篭(別名:織部灯篭)。
台座がなく埋め込み式。京都の桂離宮に同じものがある。



美喜さんは、外交官の妻として8年海外で過ごしました。
イギリスにいたとき、たまたま誘われて行ったロンドン郊外にある孤児院「ドクター・バーナードス・ホーム」でのボランティア活動、パリにいたときは、ジョセフィン・ベーカーとの深い交友など、振り返れば既にその道に導かれていたような出会いを経験しています。
1936(昭和11)年にニューヨークから帰国した頃、既に日本は戦争へ向かっていましたが、帰国の翌年に盧溝橋事件が勃発、日本は急速に戦争に傾斜していきました。

戦争が始まってからは大磯の別荘に疎開したものの、陸軍に接収されたため、夫の故郷(鳥取)に疎開、そして終戦を迎えます。

1945(昭和20)年8月30日、マッカーサーが厚木に降り立ち、9月2日には東京湾に碇泊中のアメリカ戦艦ミズーリの艦上で降伏文書調印が行なわれました。これを機にGHQは次々と占領政策を打ち出し、富裕層に対しての財産税及び富裕税の取り立て、財閥の資産凍結と解体、農地改革等の対日指令等を出し、それまでの身分制度もなくなり、上流社会を潰滅させていきました。

占領軍は直ちに目ぼしい洋館やビルの接収にかかり、富裕層の多くが財産の90%以上を失ったと言われています(ただ、他の財閥は自主解体したものの、三菱は自主解体しなかったそうです)。それまで常時何十人もの使用人が居て、現金など触ったことさえない生活から一転、今日食べる米すらない生活へ。差し押さえられていない家財道具や美術品を二束三文で売り払い、それを明日の食費に充てるという暮らしを強いられました。


 

それから少し経つと、どぶ川やいろいろなところに子供達が捨てられているのを見かけるようになり、その光景が美喜さんの頭から離れなかったといいます。

そうした子供達の多くは、連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは自由恋愛の結果生まれたものの、両親はおろか周囲からも見捨てられた混血孤児たちでした。外国人の顔つきをした子どもたちと、そうした外見の子供を連れた母親には、偏見、風俗女性への排斥感情、人種差別、敵国への憎悪感などが公然と向けられていました。
仮に衣食住が確保できたとしても、指をさして奇異な物を見るような目で見て、石を投げたり、差別言葉を投げかけられ、嫌がらせを繰り返すような日本人の間ではとても育てることなどできる状態ではありませんでした。

 

 

 

そして、この頃から「エリザベス・サンダースホーム」設立に向けて、大きく物事が動き始めていきます。

ある日、美喜さんが京大に通う次男のことで京都に行ったその帰り、東海道線に乗っていると警官が入って来ました。彼女の席の頭上の棚に紫色の風呂敷包みが置いてあるのを見つけた警官が「これは一体誰のものか?」と大声で問い始めました。でも、誰も答えない。
警官はその風呂敷包みを下ろし、ちょうど美喜さんの目の前で開けようとすると異臭がした。なかなか解けないのを解いたら新聞紙が出てきて、紐でグルグルと結ばれていた包みを開けて見ると「薄墨色したような」肌の黒い嬰児の死体が入っていました。それを見た美喜さんは悲しいとも怒りともつかない感情が襲って涙が出て来たそうです。

警官は、美喜さんをその子の母親だと思い込み、「このパン助め!」と怒鳴りつけてきたそうですが、このとき美喜さんは既に40代。
自分の洋服に手をかけて、大声で「この列車の中にお医者様はいますか?いたら出てきてください。私の身体が、今子供を産んだ身体かどうか診てください。」。

今より警官も威張っていた時代にこの毅然とした態度!
すると実直そうなおじさんが「私は見ました。若い女の人がこの紫の風呂敷包みを持って歩いていましたよ」と告げて、この件は収まりました。

そこからが美喜さんの性格が生かされることになります。「財閥のご令嬢なんて自分では何もできないでしょう?所詮は親の力でしょう?」って思ってる人もいるかもしれませんが、とんでもない。美喜さんは非常にタフなネゴシエーターでもありました。


十字架のフェンスは、26本。
豊臣秀吉が禁教時代に長崎で磔にした修道士二十六聖人を表現している。


彼女はこの日から何とかこういう子供達を育てることはできないか?と、1週間ほど籠ってろくに食べずに考え続け、祈り続け、そういう仕事に入るなら、とても自分の家庭は見られない、と夫に話をしたそうです。
父親に相談に行くと普通の人なら反対しそうな話ですが、涙を流し「時が時ならば、大磯の家など使ってよいのに。残念ながら財閥解体で政府に物納してしまった」と言われてしまいます。気持ちとしては賛成するが、父親として協力できることはかなり限られてしまっていたのですね。

すると美喜さんはどうしたか。

まず、物納された大磯の別荘を土地ごと取り戻そうと決意します。
当時、怖れられていたGHQに何度も乗り込み、交渉しちゃうんです。相手が怒って灰皿を投げつけてくるのに対して、美喜さんがハイヒールを脱いでそれで叩いてやろうと応戦するなんて局面もあったそうです。
ようやっと「買い戻すという形であればいいよ」と言われれば、即座に資金を物を売り始め、募金を募り、資金を集め始める。
「混血孤児はGIの恥。連れて帰るわけじゃないからひっそり育てて欲しい」などと言われれば「それが占領軍の方針なら文書で示してくれ」と詰め寄る。
真向からぶつかるかと思えば、他の人からは現金などで具体的に助けてもらう。その代わりに情報を提供する等の交渉をかかさない。



 

戦争に負け、財産を取られて、生活が困窮しているときに自尊心を保ち続けるのは大変なのに、きっと彼女には敗戦国の女性の惨めさなんて全く滲み出ていなかったでしょう。そして、相手からこちらが欲しいものは引き出すけれども、対等でいるためにも貰いっぱなしはしない。もう見事としかいいようがないありません。
美喜さんは、「日本の外交官は国際的イナカッペって昔から言われている」とか平気で言っちゃう、夫が外交官なのを忘れて(笑)。今でも日本にはそういう力が必要ですよね。

 

そして、1947(昭和22)年、ついに別荘を買い戻すことができた。翌年、かつて自身がボランティアをしたドクター・バーナードス・ホームのような、学校も礼拝堂も備えた施設のひとつ「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設(子供たちが成長したときにやはり外の学校には行かせられないと、学園を立ち上げています)。


はじめて預かったのは2人。東京都の孤児院からの子で、皇居前広場の楠公さんの銅像の下に捨てられていたという男の子。そして渋谷駅付近で見つかった女の子。その1カ月後、藤沢市の農家の畑の中に生み捨てにされた黒人の男の子が届けられたそうです。

澤田美喜記念館の中にあるステンドグラス


 

アメリカ人からは自国の恥部をさらすなと迫害を受け続け、日本人からはGHQと何かあるなど勘繰られ、何故敵国人が落としていった子を育てるのか?となじられ、本当に孤独な戦いだったそうです。
自分の私財、毛皮も宝石も銀食器も骨董品も売れるものはどんどん売り、海外の知人を頼って5千通にもおよぶ募金をお願いする手紙を書き、ホームの窮状を広く訴え続けたそうです。
あるとき、お金が足りないことがわかったときに美喜さんが「じゃあ、あれを売れば?」といったものが、実は周囲が青ざめるような高価な文化財級のものだったり、ああ、財閥の人にとっては珍しくもなんともないものなんだろうなあと思わされたこともあったとか。

また、パリ時代からの親友ジョセフィン・ベーカーが、美喜さんの活動を知るとすっ飛んで来て、日本各地で公演し資金を協力してくれたこともあったそうで、何かとスケールが大きい人でもあったそうです。 

混血児ひとりひとりが自立して立派な社会人として世に出ていけるよう、かなり厳しく育てたことも知られています。残念ながら、美喜さんが警察に卒業生の身柄を貰い受けに行ったことは数えきれなかったとか。
少しずつ理解を示す人も増えていき、運営資金も増えていきました。2千人に近い混血孤児を育て、アメリカに養子として500人送ったそうです。

 

彼女たちの多くは、血を吐く思いで帰らぬ夫を求めている。
負けた国の女たちは、こういう運命を追わなければならないことは世紀始まって以来繰り返されてきたことではあるが、ただそういって済まされる問題であろうか。すべての責任を戦争に帰してしまっていいのだろうか。
妊娠させられた母親が、堕胎する費用もなく、親から勘当され、近所隣から爪はじきにされ、冷たい眼で見られて、父親もない子を抱えて、夜、寒い街を歩いているような姿を、船に乗ってからの父親が一度でも考えたことがあるだろうか。

(引用:澤田美喜・著「混血児の母」より)



どれもこれも、いくら美喜さんが強くても、信仰心があったとしても、そうそうできることではありませんよね。

1980(昭和55)年5月12日 、スペイン・マヨルカ島パルマ市において人生の幕を閉じました。享年78歳。鳥取の浦浜の海の見える墓地に、ご主人と共に眠っているそうです。


※エリザベス・サンダースホームは立ち入りができません。山をくりぬいたトンネルをくぐった先にあり、中の様子は全く見えない状態になっています。いかに子供達を厳しい視線や差別や危険から守り、安心できる環境で育てようとしたかうかがえます。



澤田美喜―黒い肌と白い心 (人間の記録)

潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆 (講談社学術文庫)


 

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<編集後記>
澤田美喜さんのことを知ったのはもう随分前のこと。昔の女性は大変だった、惨めだったという話は確かにそうなのだけど、程度の差はあれ女には理不尽なことに対して文句も言わず、忍耐力が必要だと言われているようで気が滅入ることが多かったです。GHQに楯突いたというと白洲次郎さんが思い浮かびますが、女性でもいたのかと嬉しくなったのを覚えています。
また、人種差別はとても厳しい問題です。沖縄では今でも混血孤児の問題を抱えており、年間700人が戸籍があってもちゃんと学校に通えない状態だとか。沖縄に駐留する兵士が日本人の女性との間にもうけた子供がひどい差別を受け、兵士は帰国し、女性達は養育費すらもらえていない。戦後と変わっていないのです。


 

 















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