とても 久しぶりに大阪に来ています。東京や横浜も再開発ラッシュで色々な名店の閉店や、名建築の解体がすごい勢いで進んでいますが、もしかしたら大阪も・・ということで時間の許す限り、レトロ巡りをしています。
大阪・梅田の喫茶店というと、真っ先に思い出すのが「マヅラ」さん。多くの人がブログやSNSでアップしていて、お店の歴史や人気メニューなどについてはもうあまり書くことがないほどの名店です。
とても 久しぶりに大阪に来ています。東京や横浜も再開発ラッシュで色々な名店の閉店や、名建築の解体がすごい勢いで進んでいますが、もしかしたら大阪も・・ということで時間の許す限り、レトロ巡りをしています。
大阪・梅田の喫茶店というと、真っ先に思い出すのが「マヅラ」さん。多くの人がブログやSNSでアップしていて、お店の歴史や人気メニューなどについてはもうあまり書くことがないほどの名店です。
旧万世橋駅から新橋駅まで続く赤れんがの高架橋は、明治の都市計画に基づく近代化遺産。ガード下の飲食店というと有楽町で、サラリーマンの憩いの場となっているけれど、神田駅にも規模は小さくともガード下には様々な飲食店が軒を連ねています。
飲み屋さんとかラーメン屋さんが多い中、カフェってちょっと珍しい。この神田珈琲園さんは1958(昭和33)年にこの場所でオープン。最初は自家焙煎の専門店ではなく”美人喫茶”だったといいます。もうそのカテゴリーがいかにも昭和ですよね(笑)。
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前回からの続きですが、随分時間が空いてしまいました。戦後、国民が荒廃と混乱の中で生きるのに必死になっている頃、世界では共産主義が拡大していき、1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発。日本は「対共産主義の前線基地」への変化を余儀なくされました。
聞いているだけでまた戦争かと腹立たしくもなりますが、財閥解体などで力を落とした日本にとって、工業分野を復活する大きなきっかけになりました。
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外国人墓地というと山手外人墓地が有名ですが、横浜には4か所の外国人墓地があります。他3カ所は、英連邦戦没者墓地(保土ヶ谷区狩場町)、中華義荘(地蔵王廟・中区太平町)、そしてここ「根岸外国人墓地(中区仲尾台)」です。
4つあるのに、ここが”もうひとつの”と形容されるのは、山手外人墓地と同じ区内にありながら、1967(昭和42)年頃まで荒れた状態で放置されたため、あまりに知られていなかったといいます。しかも、連合軍による接収や書類の没収などによって過去のことがよくわからないとか。
渋谷109とヤマダ電機の間に「恋文横丁」と書かれたステンレス製の碑が立っています。終戦間もない頃、代々木公園にあったワシントンハイツに駐在していた進駐軍兵士と恋に落ちた女性たちの”思い”を翻訳してくれる代書屋さんがいたとか。
おそらく他の町にもこうした代筆屋さんは居たと思いますが(佐世保にもいたらしい)、ここを舞台にした「恋文」という小説と映画が人気となったことから「恋文横丁」という名前がつけられ、有名になりました。
銭湯も建て替えが増える中、破風造りの銭湯に惹かれます。ずっと南関東に住んでるから当たり前に思っていたけど、実はこの造り、関東、特に東京・神奈川などに多く見られるのだとか。1923(大正12)年の関東大震災の復興の過程で、頑丈で豪華な宮造りにしたことが始まり、戦後の復興過程でも多く造られたという。元気づけたり安心できる場だったのでしょうね。
東急目黒線「不動前」駅から徒歩7分くらいの住宅街の中にある「松の湯」さん。創業は1961(昭和36)年。 震災からは随分経っているものの、この造りは相当人気だったことが伺えます。
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「敗戦」「占領期」は、当時を知る日本人にとって、思い出したくもないような恐怖や屈辱を強いられた時期、複雑すぎて説明が難しい混乱期と思い込んでいました。食べていくのも困難な大変なのに、敵国の兵士が次々やってくるのですから。
同時に、やっと戦争が終わった!という解放感や希望もあり、生活を立て直そう、国としての誇りを取り戻そうとしていた時代でもあった、そう聞いたことも思い出しました。
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「エリザベス・サンダースホーム」という名前は聞いたことがあっても、どこにあるか、いつ誰が設立したのか知らない人も少なくありません。JR東海道本線「大磯」駅の改札口を出ると目の前に現れる木々に覆われた小山にあります。
終戦後の財閥解体で土地と建物は財産税として国に物納されましたが、彌太郎の孫娘である澤田美喜さんが私財の売却や募金を募って買い戻し、1948(昭和23)年、混血孤児のための孤児院「エリザベス・サンダースホーム」を創設しました。
JR藤沢駅ホームにあるKIOSK(正確には「New Days」)、国鉄80系電車の形です。駅売店は1932(昭和7)年、上野駅と東京駅構内に「鉄道弘済会売店」を10店舗開いたことが始まり。最近、駅売店の多くはコンビニに置き換わり、KIOSK自体も少なくなりました。
ところで、KIOSKの読み方は、「キヨスク」か「キオスク」か。スペルではキオスクですが、「キオスク」と呼ぶのはJR東日本エリアだけとか。
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映画でお馴染みの「戦場に架ける橋」見学 ⇒ 泰緬鉄道に乗る現地ツアーに参加してきました。バンコクから車で移動した後、ボートに乗り換えるのですが、乗り場のすぐ横に「JEATH戦争博物館」がありました。
乗船時間まで10分もあったかどうか・・・、なので外見だけのレポートです。ここが戦争博物館の入り口でもあり、ボート乗り場の入り口でもあり。
第二次世界大戦のインパール作戦の体験記です。激戦地で新米の主計(食糧調達)係が部隊のために調達するご苦労は、想像もつかないことばかり。書籍というよりも資料と言った方が正しいかもしれないくらいの本で、読み応えがあります。
また、インパール作戦がどれほど過酷で無茶な作戦であったか、そして終戦後の著者さんの活動についても関心を寄せて頂けたらと思います。
1923(大正12)年7月に開設された日比谷公園大音楽堂も、もう90年を越え、あっという間に100年になりそうですね。2010年10月の公会堂80周年記念事業終了とともに一度閉店された併設カフェも、リニューアルオープンで再営業~!
カフェの入口には、90年記念事業のパネルなどが飾られ、元々のチケット売り場がそのまま残っていました。もともとクロークがあったスペースがカフェになっています。
島全体を見渡せる「登龍峠(のぼりょうとうげ)」からの眺望。すっきりした晴れではないけど、うっすらと左向こう側に八丈小島が見えています。見下ろすと海はすごく青い!!
八丈島の文化・歴史には「島流し」や「流人」の話が出てきます。彼らの影響抜きに語れませんが、ちょっとつらい話もあるので、読みたくない方はここで画面を閉じてください。
関東人はそれほどお好み焼きを食べないし、焼くときは関西人にお任せ状態になるので、正直、お好み焼きのことはよくわからない(笑)。
今回はほんの少しだけ、広島のお好み焼きのことを学びつつ、おいしく頂きました。戦前までは子供のおやつだった一銭洋食(壱銭焼き)がお好み焼きになったとか。
寒川神社の薪能は、毎年8月15日の終戦記念日に戦争の犠牲者への追悼と平和祈願の神事として行われています。44回目の今年は、伊勢神宮の式年遷宮の年なので、それにちなんだ演目「絵馬(能)」「伊文字(狂言)」「歌占(能)」が上演されました。
台湾最南端エリア・墾丁に行った時に立ち寄った猫鼻頭(マオビートウ)からの眺め。向こうに見えるのは台湾最南端の岬・鵝鑾鼻(オールアンビー:がらんび)。この先の海は、台湾海峡と、かつて「魔の海峡」「輸送船の墓場」と恐れられていたバシー海峡の境界点にあたるそう。