東京|ラブレターの代筆屋たちがいた場所:恋文横丁(渋谷)

渋谷109とヤマダ電機の間に「恋文横丁」と書かれたステンレス製の碑が立っています。終戦間もない頃、代々木公園にあったワシントンハイツに駐在していた進駐軍兵士と恋に落ちた女性たちの”思い”を翻訳してくれる代書屋さんがいたとか。


おそらく他の町にもこうした代筆屋さんは居たと思いますが(佐世保にもいたらしい)、ここを舞台にした「恋文」という小説と映画が人気となったことから「恋文横丁」という名前がつけられ、有名になりました。

渋谷は、1945(昭和20)年に空襲で焼け野原になった後、他の街もそうだったように、渋谷駅周辺の焼け跡にはバラックや屋台のマーケットがたくさん立ち並び、闇市が形成されていきました。現在の渋谷109のあたりは「丸国マーケット」、渋谷プライムのあたりは「道玄坂百貨街」というマーケットだったそうです。

特に「道玄坂百貨街」は最も規模が大きく、路地は迷路のように入り組み、現在のヤマダ電機のあたりまで、引揚者や復員者たちが立ち上げた飲食店、たとえば、餃子、満洲料理、蒙古料理、ロシア料理、台湾料理などの外地料理のお店が軒を連ねていたそうです。また、様々な古着、雑貨、日用品等を扱うお店のほか、代書屋(行政書士事務所)も30軒以上あり、そこから翻訳を行う「ラブレターの代筆」が生まれたそうです。

今は面影もないけれど


実際のところ、ラブレターと言ってもロマンチックなものばかりではなく、ちゃんとした結婚や生活費を要求する内容もかなり多かったとか。
代筆屋さん達もただ翻訳したり代書するだけではありませんでした。相手の心を打つ文章を考えたり、彼女達の要求が叶うように作戦を考えたり、恋愛指南や相談まで受けていたそうなので、女性たちにとっては駆け込み寺的な存在だったのかなと思います。

この時代、兵士が去った後に妊娠が発覚したり、母子が置き去りにされることは珍しくありませんでした。戦後しばらくの間(今はもうなくなったとも言えないけれど)混血児を抱えた女性達と、混血児本人に対する偏見や差別はかなりひどいものでした。

兵器や武器を使うような戦争はとりあえず終わったものの、別の戦いがあちこちで起きていた時代といってもよいと思います。手紙のやりとりは、女性達に強いられた戦いのひとつだったのかもしれません。



代書屋さんにとって、特に朝鮮戦争が勃発してからが最盛期。兵士と女性の別れもあれば、兵士が一年に2回の休暇であり東京に来るその前後には行列ができたとか。1963(昭和38)年に横丁自体が立ち退きとなり、恋文横丁も消滅。跡地には長谷川スカイラインビル(現:ヤマダ電機)が建てられたそうです。それでも代筆屋さんの需要は続いていて、移転してからもしばらく続けられていたそうです。

現在の渋谷の風景を見ると、当時の状況は想像つきません。ビルとビルの間のわずかな隙間にひっそりと建つ「恋文横丁此処にありき」の碑だけがそのときのことを伝えています。これも以前は木製だったものを、東京都行政書士会が現在のステンレス製に建て替えたそうです。しばらくは残りそうですが、再開発で消えたりしないだろうか?そこが心配です。

碑にはこう刻まれていました。

かつて、「これより入った奥に小さな三十六の店があった。・・・・・彼等は希望と、繁栄と、ロマンを求め、その小径を”恋文横丁”と名付けた・・・・」(美美薬局店主筆)といった看板が掲げられていた。恋文横丁の名は、この地に恋文の代筆業を営む者たちが集まっていたことに由来する。また、昭和二十八年十二月には、この地を舞台とする「恋文」(丹羽文雄原作、田中絹代監督、新東宝映画株式会社)が公開されている。
行政書士は書類作成の代理などを業とする国家資格者であり、行政書士法制定六十五周年を経過した今、この碑を建て替え先人を偲び、寄贈する。

東京都行政書士会

 

映画「恋文」
兵学校から南海の空へ、そして今生きのびて故国の土を踏んだ礼吉がただ一つ思いしめて来たのは最愛の人道子だった。風の便りに彼女は夫と死に別れ上京しているとは聞いていたが。礼吉は上京して書籍ブローカーの弟洋のアパートへ身を寄せ、戦友山路の世話で洋妾の恋文代筆業をしながら、道子の行方を求めた。
五年の歳月を一瞬にかけた日はとうとうやって来た。道子が彼の許へ他のパンパンと同じ様に恋文の代筆を依頼に来たのである。清純な道子の姿を思い抱いていた礼吉は、眼前の道子についきつい言葉を言い放った。それからの礼吉は道子への愛と憎しみに悶える泥酔の日々が続いた。
兄の気持をうすうす知った洋は山路に相談して道子に会った。夫の戦死後、継母の家に居たたまれなかった彼女は、横浜の進駐軍関係に勤める中、孤独の淋しさから親切な外国士官と生活を共にするようになったが、所謂パンパンの様な荒んだ生活をしていたわけではなく、今はその士官とも別れていた。洋と山路は道子と礼吉が会う手筈まで整えたが、礼吉は拒んだ。飽くまで自分を許してくれない礼吉の心を知った道子は錯綜するヘッドライトの中に身を投げた。
(引用:映画com  https://eiga.com/movie/36359/

 


映画だからきれいに描かれているとはいえ、ひどく切ない。また、実際に渋谷でロケをしているそうなので、当時の渋谷の様子もわかるかも。


*  *  *  *  *
<編集後記>
映画を観ると、この頃、どれほど日本が困窮していて、特に女性たちが大変であったか。戦後間もないから仕方ないとはいえ、進駐軍兵士と付き合うことがこれほどまで厳しい目で見られた時代だったというのが伝わってきます。
もちろん今でも色々な問題はありますが、本当に時代が大きく変わりました。女性の生き方も随分変わったと思いますが、当時の女性達がどんな思いで生きていたのだろう。祖母や母たちがたくましく生きた時代のことを、私達はどれだけ知っているのだろう?


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