横浜|山手西洋館(1):貿易商・領事の私邸「ベーリックホール」

1853(嘉永6)年の黒船来航から5年、1858(安政5)年に日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約が締結されたのを機に、1859年7月1日(安政6年6月2日)に日本初の近代国際貿易港として横浜港が開港しました。



居留地の中でも、山手居留地は住宅地として発展、1899(明治32)年に居留地撤廃されたものの、割とそのまま残っていたようですが、1923(大正12)年の関東大震災で壊滅状態に。現在残っているのは関東大震災後に建てられたものです。

7つある西洋館の全てをまわる時間はなかったものの、3つは見学できました。そのひとつ「ベーリックホール」から。



現在は「ベーリックホール」と呼ばれていますが、もともとはイギリス人貿易商B.R.ベーリック氏の邸宅で、第二次世界大戦前まで住宅として使用されていました。

1952(昭和27)年にベーリック氏が亡くなり、1956(昭和31)年にご遺族より、宗教法人カトリック・マリア会に寄贈されました。2000(平成12)年まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用され、2001(平成13)年に、元町公園の拡張区域として敷地を横浜市が買収、建物は寄贈、補修・改修をした後、2002(平成14)年から一般公開されるようになりました。

なので、住んでいたのは10年くらいということになります。
※西洋館は全て土足禁止です。スリッパは置いてるけど、素足だと気になる人は、靴下持参をお勧めします。

 

竣工:1930(昭和5)年
施主:バートラム・ロバート・ベリック

(Bertram Robert Berrick、1873年-1952年)ロンドン出身。
親族が経営していた文房具、機械、和紙、漆器などを扱う貿易商社「ベリックブラザー商会」を継ぐため、1898年、25歳のときに来日。事業を拡大した手腕や経歴を買われてフィンランド領事へ就任。このベーリック邸で執務を行っていたという。第二次世界大戦の軍靴の音が近づくと、家族でカナダのバンクーバーに移住し、1952年にカナダで永眠。
敷地:600坪
設計者:J.H.モーガン(アメリカ人建築家)
山手111番館、山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築を設計した。山手外国人墓地に眠っている。

 

1階は応接間や食堂、居間、パームルーム、2階には寝室や子供部屋などのプライベートな部屋があります。


ベーリック邸には来客が多かったそうで、現在ホールとして使用されているこの部屋の広さは47畳、天井の高さは約4m。部屋は北面に位置しているものの、三方向にアーチ状の窓があるので、明るく開放感があります。



日本人みたいに南向きのこだわらなかったからなのか、当時、北側の眺望がよかったからなのかわかりませんが、壁泉付きのパームルーム(サンルームみたいなスペース)は北側にあります。横浜でも山の上は、冬になると結構寒いと思うのですが・・・と心配したら、全室スチームの暖房が完備されていたんだそうです。



玄関を入って、右側がこの広間なのですが、左側はダイニングルームとキッチンがありました。こちらの暖房はフェイクだそうです。



 

 昔のシンクは重厚ですね。バスタブみたい。

 

2階へ上がる階段の手摺もおしゃれです。


 

子供部屋はターコイズブルーを基調にした壁紙です。窓の形もかわいらしい。


 

 
 
こちらがベーリック氏の書斎・・ということになっていますが、もともとは寝室だったとか。


こちらが奥様の寝室とされています。短い内廊下でベーリック氏の書斎と繋がっています。また、大きなクローゼットとサンルーム付きです。


 
時間がなくてゆっくり見られなかったのですが、装飾も素敵で、細かいところにもすごくこだわっていて、遊び心満載です。
こんなおうちだったらむやみやたらに出かけずに、家に居たくなりますよね。


※館内は土足禁止です。入り口でスリッパに履き替えますので、靴下を持って行った方がいいと思います。 





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