LA|全米日系人博物館(8):日系人部隊

 前回「全米日系人博物館(7)」の続きです。1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内でも志願兵の募集が始まりました。部隊名は「第442連隊(442nd Regimental Combat Team)」。

軍服は思ったより小さく、当時の日系二世も小柄だったことがうかがえる。

 

忠誠登録で「YES」と答えた日系人は87%もいたにも関わらず、当初、兵役を志願し入隊できたのは800人くらいだったそうです(その後は増えます)。

強制収容されたことや収容所内での親日派・親米派の争いなど、過酷な境遇が影響したと言われています。一方、ハワイでは日本軍に直接攻撃を受けていることや一部の人を除いては収容されることもないなど事情が大きくことなったために、募集定員1500人に対して6倍以上が志願があったそうです。

こうした境遇の違いが、本土出身者とハワイ出身者の間の大きな隔たりや対立が生み出し、非常に深刻なものになっていったそうです。

ハワイと比べると志願者は少ないかもしれないけれど、
この環境から志願した青年たちが800人もいたと考えると、どうだろう?

 

忠誠登録のどちらの質問にもYESと答えた人達の思いはどんなものだったのか?インタビュー集を読むとさまざまですが、


「自分がYESと答えて、軍に志願することで市民権が回復してここを出られる。」
「家族もこの過酷なキャンプから解放してもらえるかもしれない」

「自分はアメリカ市民だし、祖国アメリカに対して反逆的な気持ちはない。国家や他の人々の安全を脅かす人間ではないし、差別され蔑まれる存在ではないことを証明したい」

「この後に続く世代であるがアメリカで受け入れられるように。」

「もう選択の余地はなかった」

といったものが伝わってきます。中には、アメリカという国家ではなく、民主主義に対してYESという意味だと考えた人もいたそうです。


一世である親たちは「YES」と答えた子供達が戦場に向かうのを見送ることになりました。まさかアメリカの博物館で千人針の展示を見るとは想像していなかったけれど、親が一世だとこうしたものがあっても不思議ではありませんよね。

 

今の日本では虎は金運UPの象徴の一つとなっていて、時代の違いを感じます。

 

千人針は、出征する人や出征して前線にいる兵士の武運長久(ぶうんちょうきゅう: 戦いでの幸運が長く続くこと)を祈るために作られたもの。 1メートルほどの白いさらしに赤糸で、一人一針ずつ縫ってもらい、穴の開いていない(撃たれない)という意味に加えて、特定の硬貨(五銭、十銭)を縫い込みました。五銭は四銭(死線)を越えており,十銭は九銭(苦戦)を越えているという縁起を担いでいます。戦時中、白い布と赤い糸と縫い針を持って。近所の人や、街で道行く人にお願いする母親たちの姿があったそうです。
ちなみに、アメリカでは5セントを括り付けたとか。

虎と竹の組み合わせは、千人針以外にもよく見かけるもので、日本画の伝統的な画題で、屏風や掛け軸などによく描かれています。
虎は「一日にして千里を行き、千里を帰る」といわれ、強靭な生命力であらゆる厄災を振り払い、家運隆盛を導く縁起のよい動物。また、仔虎に愛情を注ぐことでも知られ、親子の絆の象徴でもあります。
竹は、真っ直ぐに伸び、決して折れないという特徴を持ち、竹林は虎の天敵である象が入れず、虎にとっての安住の地であるという法話があるため、非常に縁起の良い組み合わせとされています。



 

志願して兵役につくことができた二世たちは、数カ月の厳しい訓練を受けたのち、戦地に向かって行きました。日系人部隊の結成から活躍などについては、この博物館の隣にある「Go For Broke National Education Center」の方が詳しいと思うので、ここではさらっと主なことだけ書いておきます。

 

活躍した日系人部隊が結成されるまで 
1943年8月、ハワイで結成された第100歩兵大隊が先に戦地入りして、北アフリカのオランに到着したものの配備先が決まっていなかったなど、そんな状態でした。陸軍側も募集したはいいが、日系人部隊をどこまで信頼し、どこに配属してどう扱えばいいのか、わからなかったのかなという感じがします。日系人たちは訓練中も非常に優秀な成績はおさめていたものの、まさかこの頃は誰も(将校たちでさえ)、伝説の部隊になるとは想像していなかったと思います。

第100歩兵大隊は、北アフリカを離れてイタリア戦線でドイツ軍と戦い、ローマへ侵攻していきます。その途中にある激戦地「モンテ・カッシーノ」での戦闘も命じられ、多くの犠牲を払いました。その後、イタリアに先に到着していた第442連隊が第100歩兵大隊を編入、伝説となる日系二世部隊が結成されました。

 


 

ブリュエールの解放
1944年9月、部隊は西部戦線へ移動、第36師団に編入されました。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦い、その後、ブリュエールの街を攻略するため進軍するものの、一帯は山岳・森林地帯で戦車は使えず、周囲の高地は既にドイツ軍が陣取っていました。歩兵の力のみが頼りという難所のうえに激戦となりましたが、ここでも、日系人部隊はドイツ軍の攻略を突破、街を解放しました。
街の人たちは、アメリカ軍だから大柄で屈強な白人たちが来るとばかり思っていたのに、実際に解放してくれたのは、あれ?こんなに小さな東洋人?とに非常に驚いたそうです。また彼らは英雄たちが小さかったことだけでなく、非常に陽気で親切であること、アメリカにいる家族が強制収容所に入れられていることなどを知り、感激したそうです。
このときの感激は、戦後も色あせることがありませんでした。ブリュエールでは、このときの部隊の活躍を記念し、通りに「第442連隊通り」と名付け、1994年10月15日には第442連隊の退役兵たちを招き、解放50周年記念式典を執り行ったそうです。


 テキサス大隊の救出
その頃、テキサスの歩兵部隊がドイツ軍による猛攻によって全滅に近い大打撃を受け、孤立無援の状態に陥り、アメリカの新聞では「ロスト・バタリオン(失われた部隊)」と報じられたほど絶望的な状態でした。
このテキサスの歩兵部隊を救うために闘ったのも日系人部隊でした。既に激戦地で多くの仲間を失い、疲弊しきっていたところに命じられたため、怒りや「自分たちは捨て石」などの嘆きの声も上がったそうですが、命令に抵抗はできません。
彼らのスローガンは「Go For Broke」。テキサス大隊211人の兵士を救うために、第442部隊は54人の犠牲者と800人の負傷者を出しながらも救出に成功したそうです。あまりに犠牲が大きすぎて言葉もないのですが、日系人部隊がここまで頑張らなくてはならないほど、差別や偏見などによって追い詰められていたのかと思うと、言葉がありません。

※Go For Brokeには、「倒れるまでやろう」「死ぬまでやろう」「いっちょやったる!」みたいな意味だと言われていますが、羽振りのいいハワイ兵は賭け事が好きで「財産全部突っ込め!」といったときに使ってた言葉でもあるとか。真偽のほどはわかりません(笑)。

 

ダッハウ強制収容所の解放
1945年5月2日のナチスのダッハウ強制収容所の解放で中心的な役割を果たしたのも、この日系人部隊でした。第422連隊の配下にあった第522野戦砲兵大隊がドイツ軍との激戦の後、ダッハウで縦縞の服を着たユダヤ人たちを見かけ、強制収容所を発見したそうです。
実際に解放に関わるあれやこれやをしたのは白人部隊で『1945年4月29日にアメリカ第7軍第42歩兵師団により解放された』ということになっていたそうです。日系人部隊が大きく関わっていたことは、何故かしばらくの期間は表されることはなく、明らかになったのは40年後の1992年。また日系人たちも「俺たちが見つけた」と主張をしなかったのでしょうね。
それにしても不思議なめぐり合わせというか、自分たちは収容所から来て、家族は今も収容所に入れられている日系人が、ナチスの強制収容所を発見して、ユダヤ人たちを解放することになるなんて。


ちなみに、アメリカ人部隊がダッハウに乗り込み、所長(代行)やドイツ軍人を拷問・リンチの末、裁判なしの処刑によって多数を殺戮した「ダッハウの虐殺」が起こってしまいましたが、日系人部隊はこの虐殺には参加していません。

 


最初は戸惑い、将校たちも日系兵士たちをどう扱っていいのか困っていたものの、いつ頃からか「軍として手放したくない部隊」になり、司令部の日系兵たちに対する評価も大きく変わっていきました。

「恥ずかしがり屋」
「礼儀正しく清潔」
「前線では目的をやり遂げようと、常に全力を尽くす」
「命令に対して、つべこべ言うことなく、速やかに従う」
「突撃となると、全員立ち上がって突進する」

そして、

「傷ついた仲間を置き去りにしない」



特殊な勲章を授けられた数は多いが、
それがどういうことなのか、意味も考えたい。

『特殊な勲章を授けられた数も多く、今でも語り継がれる伝説の部隊。アメリカ国内だけにとどまらず、フランスやドイツでもその名と功績を知られ、感謝とともに語り継がれている』・・・というのは事実なのですが、認められるまでの犠牲の大きさにこそ目を向けるべきだと個人的には思っています。
激戦地ばかりに送られ、多くの仲間を失ったり、後遺症や仲間を失った悲しみを抱えている兵士たちはもちろんですが、戦死した人達がどんな思いで亡くなっていったのか。
また我が子の戦死の知らせを、有刺鉄線に囲まれた強制収容所の中で受け取った一世たちの思いはどうだったでしょうか?自分の子供はアメリカ市民であるにも関わらず収容所に入れられたと思ったら、自分の祖国の同盟国であるイタリアやドイツと戦って命を落とした・・・。もう、あまりに残酷です。

 

 

*  *  *  *  *

<編集後記>
書きながら本当に複雑です。なんせ、日本がアジア侵略を広げ、さらに真珠湾に攻撃していったという加害の歴史でもあるのですから。でも、知らない方がよかったと思ったことはありません。戦争では多くの方が亡くなり、特に戦地のことを語れるのはもともと限られた人の中で、無事に生還できた人のみです。その人達も少なくなって当時のことを話せる人はどれだけいるのでしょうか。
それに、できることなら忘れたかったんじゃないかな。でも、やっぱりもうちょっと子供達に本当のことを話すべきだった、後世に語り継ぐべきだったとも思ってるかな。その気持ちさえ、今はもう聞くことができません。
次世代としてはどうしていいやらです。


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