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2024-02-17

東京|大正時代の建築でお蕎麦:虎ノ門 大坂屋 砂場(港区虎ノ門)

とにかくいつも混んでいてなかなか入れなったお蕎麦屋さん「虎ノ門 大坂屋砂場」に行ってきました。1972(明治5)年、砂場本家「糀谷七丁目砂場藤吉」の暖簾分けで創業。虎ノ門という場所柄、幕末の三舟「山岡鉄舟」「高橋泥舟」「勝海舟」にも贔屓にされてきたそうです。


 現在のお店は、1923(大正12)年に建てられ、関東大震災や第二次世界大戦などの被災を免れました。また、近年の再開発では、愛宕下通りの道路拡幅工事の際に建屋を曳家で4m移動したものの、建物の風格は失われていません。店主さまも、現在ではもう6代目だとか。

2023-10-22

東京|皇居ランナーにも人気「稲荷湯」/少し、お稲荷さんの話(神田)

 

宮造りなど、いかにも昭和の銭湯という感じのところばかり記事にしてきたけど、ビルトインの銭湯でも紹介したいところはいっぱい。たとえばここ、JR神田駅と大手町の間くらい(A1出口からなら、大手町の方が近い)「稲荷湯」さん。


既にここにあった銭湯を、現在のご主人のお父様が1955(昭和30)年に購入し、1982(昭和57)年に建て替えてビルトイン銭湯になったとか。中はさらにリニューアルされていて非常にきれいです。

2023-09-25

横浜|黒湯で温まる:朝日湯(鶴見区生麦)

黒湯が出る銭湯は以前にも行ったけど(横浜市中区横浜市南区)、今回は横浜市鶴見区にある朝日湯さんに行ってきました。京浜急行電鉄本線「生麦」駅から徒歩3分くらいのところにあり、国道15号線沿いにあるので、車で通って見かけた方もいらっしゃるかと思います。

蒲田や川崎あたりの黒湯は、コールタールみたいな色で、油のような虹色のものが浮いていたり、ぬるぬる感があるかと思いますが(化石海水の海藻ミネラル含有量が多いせいらしい)。朝日湯さんもそうですが、横浜の黒湯はあっさりしていて無臭。ぬるぬる感に抵抗がある人にはお勧めです。

2023-09-23

東京|明治創業、蕎麦の老舗:神田まつや/ちょっとお蕎麦の話

前回、甘味処の竹むらさんの記事を書きましたが、今回はそのすぐ近くにある老舗のお蕎麦屋さん「神田まつや」さん。実は、竹むらさんに行く前に訪れたら、満席。日を改めて来てもほぼ満席!さすが人気のお蕎麦屋さんです(基本的には、並ぶものと思っていい感じです)。

神田まつやさんは1884(明治 17) 年創業、大正、昭和、平成を経て令和の現在でも伝統の江戸の味を守り続けています。こちらも池波正太郎さんが通った名店です。

2023-09-18

東京|老舗の甘味処であんみつ&揚げまんじゅう:竹むら(神田)

 

神田というとつい神保町の方ばかり行っていて、JR神田駅周辺に来たのは久しぶり。このあたりは、北側の神田川、南側の日本橋川に挟まれた庶民の町で、低中層ビルが密集するオフィス街。西口に降りれば大手町に近く、北口に降りれば秋葉原に近い。


今回は、北口からおよそ徒歩5分、1930(昭和5年)創業の甘味処「竹むら」さんに行ってきました。 太平洋戦争中の空襲で東京、特に下町は甚大な被害を受けましたが、奇跡的に焼け残った数軒の中の1つです。

2023-07-09

鎌倉|松竹大船撮影所の名残り

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数々の名作を生み出してきた映画製作会社松竹。1920(大正9)年に東京・蒲田に松竹蒲田撮影所を設立して映画製作を始めました。

寅さんを演じる渥美清さんと山田洋次監督。
撮影は昭和44年から平成7年頃まで約26年間も続いた。


無声映画からトーキーへ移り変わると、周囲にある町工場の騒音が撮影に差し障ることから、1936(昭和11)年に、神奈川県鎌倉郡大船(現:神奈川県鎌倉市大船)に移転しました。寅さんでおなじみの「男はつらいよ」もここで撮影されていました。

2021-03-02

Seasons|縁結び神社の雛人形展@座間神社

神奈川県の座間神社では、階段77段や社殿・神楽殿に約千体の雛人形が並べられます。お子さんの成人や時代の変化で箱から出ることがなくなってしまった人形たちをご供養し、飾るようになったそう。



今年で5回目、2月28日(通常は3月1日)から3月3日までのわずかな期間の催しです。 雨が降ると外に置かれた雛人形は濡れないように片づけてしまうのだとか。お天気が不安定なこの時期(最近、風の強い日も多い)、見られるチャンスはそれほど多くはありません。

2016-11-30

LA|全米日系人博物館(8):日系人部隊

 前回「全米日系人博物館(7)」の続きです。1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内でも志願兵の募集が始まりました。部隊名は「第442連隊(442nd Regimental Combat Team)」。

軍服は思ったより小さく、当時の日系二世も小柄だったことがうかがえる。

 

忠誠登録で「YES」と答えた日系人は87%もいたにも関わらず、当初、兵役を志願し入隊できたのは800人くらいだったそうです(その後は増えます)。