台湾|日本統治時代の建築:旧・高雄駅/駅弁

 高雄に現存する日本統治時代の建築「旧・高雄駅」。1940(昭和15)年に竣工、台湾西部に造られた日本統治時代最後の駅舎。ただ、この帝冠様式の建築は、ナショナリズムの台頭した時代に誕生したからか「ファシズムの象徴な建物」というレッテルを張られがちです。当時の台湾ではどうだったのだろう?


現在は、壁沿いに椅子があるだけで、簡易的な待合室みたいに利用されていました。

軍国主義と帝冠様式
帝冠様式という、当時の近代的な西洋風の建築物の上に日本風の屋根を付けた和洋折衷建築様式で建てられた歴史的な建造物。1930代から一時的に用いられていた建築法で、終戦後は事実上消滅したため、数が限られた貴重な建物となっています。台湾では「興亜帝冠式建築」と呼ぶそうです。
日本国内の代表的なものは、名古屋市庁舎、京都市立美術館(1933年)、旧軍人会館(1934年)、愛知県庁舎(1938年)など。

当時の日本に、第三帝国様式を推し進めたドイツのような方針や統制・指導があったのか?というと、建設資材等の制限はともかく、建築意匠に対する統制はなかったのではないか、と言われています。
軍関係の建物を見ても、国粋主義精神を鼓舞をするような統制があったようにも思えず、1920年代後半から建てられた遊就館や軍人会館など伝統的な日本趣味を取り入れた例はあるけど一部に限られているし、大阪軍人会館(1937年竣工)では、モダニズムのデザインが採用されています。軍としては「よくわからない」とか「何だっていい」感じだったのか、「それどころじゃなかった」のかわかりませんが、方針すら持っていたかどうか。

日本が統治(占拠?)して、設計者も建設会社も技術者も日本だったら、何をどうやっても日本っぽくなるのは仕方ないけれど、だからといって「戦時中の皇民化運動とは無関係」と言い切れるかのどうか。
何でもかんでも日本式を強いられ、日本人化されていき、それまで住んでいた村ごと強制的に移住させられた台湾人にとって、瓦屋根の駅舎はどう映ったのか。

「こうして巧妙に、忠良な臣民として戦時動員体制に組み込んでいった」「国民が一丸となって戦争に立ち向かえ!と鼓舞していた時代の象徴」と感じてるかもしれない。それでも台湾の人たちは何故、これほどまでに大切にして、日本統治時代のことを語り継ぎ、後世に残そうとしているのだろう。

また、この旧・高雄駅構内には台湾で初めて、構内プラットホームを繋ぐ駅構内の地下道が設けられたという。施工は清水組(清水建設の前身)、2002年まで使われていました。
日本の敗戦後、日本が造ったあらゆるものが国民党によって破壊されましたが、1947年2月28日に台湾の台北市で発生した「二・二八事件」は台湾全土に広がり、鉄道交通の要所であった八堵駅、嘉義駅、高雄駅も被害を受けています。
この事件では多くの民衆が国家暴力を受けたという非常につらい歴史がありますが、日本統治が終わった後のことなので、これらの歴史に心を寄せる日本人はそれほど多くはありません。

様々な苦難を経て、この駅舎は2001年には、行政院文化建設委員会(現・文化部)主催の台湾歴史建築百景の10位に選ばれている。台湾高速鉄道や地下鉄の開通に伴って新駅舎の建設が決定した際、保存を望む声が多く寄せられました。そこで高雄市は、移築工事(曳家)で、総重量 3500トンの駅舎をそのまま台車に乗せて、1日に約6m、14日をかけて東南の方向へ82.6m移動させ、今に至るのだそうです。



高雄駅で買った臺鐡便當(駅弁)の箱に描かれているのは、昔の高雄駅の様子でしょうか





駅弁の中身です。かならず入っているのが「煮卵」。



日本国内に現存する帝冠様式の建築を見たり、ネットで見たりするのと異なり、その場に立って見ると、色々考えさせられるものがあります。これも旅をしたからこそ。旅の仕方は色々だけど、台北でおいしいもの食べて、エステに行って、ああ、楽しかった・・では、終わりたくないのも本音です。

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