横浜|港の見える丘公園/横浜米軍機墜落事件のこと

1859(安政6)年の横浜開港時、港の見える丘公園の一帯は外国人居留地でした。丘の上はイギリス軍、下にフランス軍が駐屯していたそうです。


現在のような公園になったのは、1962(昭和37年)。戦後の流行歌「港が見える丘」に由来して付けられました。オフコースの「秋の気配」の歌詞に「あれがあなたの好きな場所、港が見下ろせる小高い公園」とありますが、ここのことだと言われています。



JR根岸線「石川町」駅から元町商店街を抜けるか、みなとみらい線「元町・中華街駅」から公園の方に向かうと、フランス山地区の入り口が見えてきます。




パビリオン・バルタール

入口の広場にあるモニュメント、「パビリオン・バルタール」。
1860年代のパリに建てられ1973年まで存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部。中央市場自体は12世紀から存在するもので、この骨組みみたいなものは、19世紀後半のナポレオン3世時代にオスマン市長が建築家バルタールに設計を依頼したものだそう。それも再開発のために取り壊されることになり、”19世紀末の純鋳鉄製構造物としての貴重な学術的・文化的遺産”であることから、横浜市がパリ市にその一部の移設を申し入れたそうです。パリ市の好意で寄贈され、ここに復元されました。
それがここにあるのを、パリの人がどれだけ知っているかは不明です。


 

ここから階段を上っていきます。園外の行動を登っていくこともできますが、なかなかの坂道です。若者はデートのため、中高年は健康増進のため、せっせと上ります。


 

フランス山の風車と井戸
フランス領事館が建てられた頃は水道が整備されていなかったため、周辺住民は井戸水で生活していました。井戸水を汲み上げるために風車が使われていたそうです。実際に丘を登ってみると、水を人力で運ぶのは相当きついと思います。
使用されていた風車は関東大震災で焼失したため、現在はモニュメントとして残しています。また、井戸も形だけは残っています。




 

 

愛の母子像
こうした遺構が残されたエリアに、何故か東洋人の母子像が。
1977(昭和52)年9月27日、厚木基地から千葉県館山の東南沖に待機中の航空母艦「ミッドウェイ」に向かおうとしたアメリカ海兵隊の戦術偵察機(RF-4BファントムII 611号機)が離陸後まもなくエンジン火災を起こし、横浜市緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落、母親と幼い子ども2人が亡くなった大事故がありました。その記念碑です。


花が絶えることがないよう、鉢植えが並べられていました。


●事故概要

厚木基地を離陸後、まもなくエンジン火災を起きたため、2名のパイロットは、機体を安全な場所へと操縦することなく放棄して脱出した。無人となり、制御のきかない燃料満載のファントム機は、宅地造成中の空地へ墜落。その機体の長さ約19m、重さ26t。
機体の破片は周囲400m付近にまで飛散し、一瞬にして周辺の家屋20戸を炎上・全半壊させたという。墜落時の熱風は30m離れた地点でも、肩にやけどを負うほどの強烈なものだった。

この墜落の衝撃によって分解し、火だるまになったエンジンが、自宅で団らんする母子と、遊びに来ていた義妹さんに直撃。4人のやけどは最もひどい “全身熱傷3度”の状態、幼い2人の子供のやけどは体表面積の100%に達しており、翌日には死亡した。
母は一命を取りとめたものの、一ヶ月もの危篤状態のあと、70回にも及ぶ皮膚移植手術を繰り返しながら、長期間にわたり入退院を繰り返すという壮絶な日々が待っていた。
(移植する皮膚は身内だけでは足りず、東京新聞が皮膚提供を呼びかけ、募集に1500人もの申し出があり、42名からの皮膚提供を受けたという)。

我が子2人の死を知らされないまま、会いたい一心で懸命に治療とリハビリに励み、車椅子で一時帰宅もできるほどに回復した1年3カ月後に事実は知らされた。精神的も相当参ってしまい、心理的なリハビリも行ったが、母親の精神をますます混乱させることになった。そして事故から4年4か月後、母親は31歳の若さで子供達のところへ旅立って行った。

母親の葬儀を行なうにあたり、遺族は事前に「葬儀の日は、米軍機の飛行を自粛してほしい」と要求し、横浜防衛施設局は「当日いっさいの飛行機を飛行させない」旨の約束したのにも関わらず、葬儀の最中も上空で何度もジェット音が響いていたという。


墜落事故発生から10分後に出動した海上自衛隊の救難ヘリは、無傷に近い2人のパイロットだけを救助し、墜落現場に向かうことはなかったそうです。また、当日に行われた事故機の回収も、翌日の日米合同検証もアメリカ主導で行われました。1960年の安保改正で条約化された「占領軍の特権の継続」を認めた協定があるからです。ひどい話ですが、墜落現場での作業の際に、笑顔でピースサインを示して記念撮影をおこなう兵士もいたと言われています。

このようなアメリカ主導で行われた事故後の諸々について、“安保男”と呼ばれた当時の飛鳥田横浜市長は、事故原因究明に尽力し、抗議声明も発表、当時の米大統領カーター宛に電報を打つなどもしたそうです。



1985年1月、事故から8年。遺族の要望により、横浜市へ寄贈する形でここに犠牲者をモデルとした「愛の母子像」というブロンズ像が設置されることになりました。子どもたちは生前、海を見たがっていたということからです。

この事故のことは、亡くなった母親・和枝さんの実父である土志田勇さん著『「あふれる愛」を継いで』(七つ森書館)に詳しく書かれています。

 

ブロンズ像の設置まではこぎつけたが、ここでも問題が。
行政は、都市公園法の解釈を理由に説明板の設置を認めず、台座の文もについても、これに抵触するとのことで、遺族側に書き換えを要求したそうです。
「あふれる愛をこの子らに」の「この」を削除して「あふれる愛を子らに」にとのことですが、それでは何の記念碑で、何故ここにあるのかがわかりませんよね。そんな状態が長い続いたため、一部の市民から疑問の声が相次ぎ、2006年1月になってようやっと事件の概要を簡潔に記述した碑文が設置されました。
後から付けた感じがわかりますよね。
事故から29年、ブロンズ像が設置されてからも21年経っているのですから。

まさかですよね。
普通に暮らしているところに、燃料満タンの戦闘機が落ちてくるなんて。それだけでも言葉はありません。

ところで当時、国や県はどうしていたのでしょうか。また何かあったとき、今の日本政府にこれだけのことができるだろうか?というととても期待できません。沖縄をはじめどうするつもりなのかと思います。
核についても同様で、広島市長が声を上げているけど、国はどうしているの???

※実は、この事件で重いやけどを負ったある女性が、日本にも裁判権があることを掲げて、米軍のパイロットを業務上過失致死罪で告訴しています。結果は不起訴となったけれお、民事訴訟において横浜地裁は「米国人にも民事裁判権が及ぶ」という画期的な判決を出しています。


この話を思い出した後だと、この光景、母子で見たかっただろうなと思ってしまいます。

 


ちなみに、この丘は海抜38m程なので決して高くはないのですが、目の前が開けているので開放感がありますね。また、2011年夏に公開のジブリ作品「コクリコ坂から」は1963(昭和38)年の横浜が舞台。「コクリコ荘」がある場所はここ、港が見える公園がモデルなのだそうです。



ちなみに、ローズガーデンや大佛次郎記念館などができたのは平成に入ってから。
そもそも、横浜の人気が爆発的に出たのは、横浜を舞台にしたドラマ「あぶない刑事」も大きなきっかけだったように思います。よくあちこちでロケをしていたのを見かけましたっけ。
「横浜ドライブ」「横浜デート」がカッコイイみたいな風潮があり、雑誌もよく特集していました。それまで不便だった本牧にまで、おしゃれな店が出来たりして。

もともと観光地であったこのあたりにも、色々な施設が建てられたり、案内板が付けられたりとより歴史がわかりやすくなったと思います。



バラがきれいな季節に来た方がいいのかもしれませんが、人が多いですよ。



 *  *  *  *  *  *
<編集後記>
その事故のことは当時聞いたことがあるような気がするのですが、子供だったから記憶は薄く、大人になってから本を読みました。事故が起きたこともつらいけど、母親が受けた壮絶な治療や、気持ちの変化、ご家族の思いなど、涙ながらに読んだ記憶があります。
確かに今は空から爆弾を落とされることはなくなったけど、戦争が終わったと言えるのか、占領期は終わったと言えるのか。こんな風に、ごく普通の暮らしをしていた国民がこんな形で亡くなったり、塗炭の苦しみを味わっても、日本独自の調査さえも行えないなんて。
沖縄ほどではないとしても、神奈川県出身でも実際にこうした事故が起こったことを知らない人もいます。ここに来ても母子像の前で足を止める人はどれだけいるのだろう?
せめて、説明板、もっと大きくてもいいよね。

※1964(昭和39)年には、東京都町田市でも米軍機墜落事故が起きています。


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