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寅さんを演じる渥美清さんと山田洋次監督。 撮影は昭和44年から平成7年頃まで約26年間も続いた。 |
無声映画からトーキーへ移り変わると、周囲にある町工場の騒音が撮影に差し障ることから、1936(昭和11)年に、神奈川県鎌倉郡大船(現:神奈川県鎌倉市大船)に移転しました。寅さんでおなじみの「男はつらいよ」もここで撮影されていました。
この頃より、大船は“東洋のハリウッド”と呼ばれるほどに映画産業が活発化していったそうです。
(駅前は古くからの商店街もあったりして、とても庶民的ですが・笑)。
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蒲田からの移転の際、新聞社から桜の苗木1200本が寄贈された。 撮影所は桜の名所となり、毎年のように桜祭りが開催されていた。 |
移転翌年の1937(昭和12)年に勃発した日中戦争の開戦を機に、大船駅前には横須賀海軍工廠深沢分工場が開設され、魚雷・機雷などの兵器が製造されるようになります。松竹が取得した土地も、芝浦製作所や三菱電機の工場へと転換させられ、世の中が戦争一色になっていきました。1938(昭和13)年には、興行時間の短縮などを定めた映画法が施行され、大船でも戦意高揚のための映画が製作・撮影されました。
この年に映画化・公開された川口松太郎の小説「愛染かつら」の大ヒットにより、大船撮影所の名前は全国に知られるようになりました。
終戦後、横須賀海軍工廠深沢分工場は国鉄の工場になり、戦争で規模を縮小させられていた映画製作も再び活発化します。大船という町も国鉄も、ロケなどを行う際には松竹にとても協力的だったそう。
特に戦後は食べ物や日用品だけでなく、娯楽や文化を強く求めた時代でもあったからかもしれません。
戦後、大船撮影所で撮影された作品は、1953(昭和28)年に54本、1959(昭和34)年には56本、次々と映画を生み出す「夢の工場」と言われていました。最盛期には1200人のスタッフが詰め、監督の名を冠した4、5組のチームが同時に動いていたそうです。
映画だけでなく、テレビドラマの撮影にも使用され、テレビ朝日の2時間ドラマ「土曜ワイド劇場」の人気シリーズ『江戸川乱歩の美女シリーズ』もここで撮影されていたとか。
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交差点にも「松竹」の名称が残る。 ショッピングセンターの渡り廊下部分には、 かつて「松竹大船撮影所入口」と書かれていた。 |
それほど繁栄していた撮影所でしたが、1995(平成7)年、「男はつらいよ」の48作目の公開を終えた後、主役の寅さんを演じた渥美清さんが亡くなり、続編の映画製作が困難になってしまいました。看板作品を失った後の経営は厳しく、「鎌倉シネマワールド」として映画のテーマパークにしたものの3年で閉鎖。
1999(平成11)年10月に、大船撮影所の閉鎖を発表、2000(平成12)年6月に撮影所は完全閉鎖されました。
撮影所があった場所は売却され、鎌倉女子大学・鎌倉女子大学短期大学部の大船キャンパスとして利用されています。
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松竹マークのマンホールの蓋。 |
現在、松竹大船撮影所があったことがわかるものは、わずかしか残っていません。
<残っているもの>
- 「松竹通り」という通りの名前、
- 「松竹前」という交差点名・バス停名
- 「松竹前町内会」 という名称
- 砂押川に架かる「松竹大通橋」「松竹第二号橋」などの橋名、
- 砂押川プロムナード付近に残るこの松竹マークのマンホールの蓋。
- 石碑
くらいでしょうか。
撮影所があった雰囲気もなく、当時の栄華を知る人も少なくなっていきます。かつては跡地に美空ひばりさんや渥美清さんの看板が建てられていたそうですが、現在はそれもありません。
上記で使用した2枚の画像(渥美清さんと山田洋次監督/撮影所入口)、何と松竹ショッピングセンター(イトーヨーカ堂とブックオフが入っている建物)の2階にある喫煙所内にあるんです。
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ブックオフが入ってる方の建物の2階にひっそりと |
女子トイレの横に喫煙所があり、扉のガラスが透明だったため、たまたま目に入ったのですが、私がタバコを吸わない男性だったら、ガラスが透明でなかったら、絶対に気付きませんよね。他に貼るところはなかったのかな??
たまには昭和の映画を観て、その映画製作に携わった人達や協力した人達の熱意や栄華に思いを馳せるのもよいと思います。
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