東洋一のサナトリウム(結核療養所)と言われた「南湖院(なんこいん)」。1棟だけ当時の建物が残されています。
サナトリウムは、高原や海浜など環境の良いところに建てられることが多く、湘南は結核療養に格好の場所のひとつとされ、葉山から湯河原あたりまでの相模湾沿岸には療養所や貸別荘があったそうです。
国民病だった「結核」
結核は、昭和10年代には毎年十数万人が命を落とし、”死に至る病” ”不治の病”
と恐れられていました。昭和29年ごろまでは、日本人の死因の第一位。原因は、主に食糧事情の悪さと過労でした。
日本が戦争一色になると、結核に罹ったことは、さらに周囲に言えることではなくなり、家族の誰かが結核に罹ったときは「肋膜」といって隠したそうです。
かつて、天皇陛下ご自身も結核に罹り、新薬だったストレプトマイシンやヒドラジットによって全快したことを明らかにされたことがありました。もし当時、皇太子殿下が結核に罹っていることが知られれば大変な騒ぎになるため、宮内庁が公表しなかったと言われています。
結核を治療するためには、空気のよい場所へ転地し、栄養や休養をとるほかないと言われていたましたが、実際のところ、一般庶民の厳しい暮らしでは不可能なものでした。
特に戦中、栄養価が高い食品、たとえば卵や牛乳も非常に高価であったため、庶民は口にすることはできませんでした。また、医者にかかれば「非国民」だといわれ、薬局に行ったところで風邪薬でさえも手に入れるのは困難、あっても高価という状況が続いていました。
また、現代のような医療制度や生活保護制度もなく、高熱を冷やす氷でさえも、噂を立てられぬよう、こっそり町の氷屋さんに買いに行かなくてはなりませんでした。情報を集めたり、ご近所に相談することもできず、家族の負担も非常に大きなものだったと思います。 また、医療従事者にとっても、つらい時代だったと思います。
今でもご年配の方々が「結核」という言葉を忌み嫌い、拒絶反応を示すのは、そんな時代を知っているからです。
●公益財団結核予防会
https://www.jatahq.org/about_tb/qa
南湖院の歴史
日本での最初のサナトリウムは、1887(明治20)年、鎌倉由比ヶ浜に建てられた結核療養所「海浜院」。南湖院は、医師・高田畊安によって1899(明治22)年9月に開院、神田に東洋内科医院を開院したのち、茅ヶ崎に駅ができると聞き、土地を購入し、分院として開院しました。
茅ヶ崎市は、この南湖院の規模の拡張や知名度の高まりに伴い、市街地化や宅地化が進められました。海水浴場も整備されていき、保養地や別荘地としてのイメージが定着していきます。
敷地は広いけれど、これでも当時の敷地の一部。
当時、どのくらいの広さがあったのかというと、この敷地の東側にある校庭の広い中学校と、そのさらに向こうにある小学校あたりまでは南湖院の敷地だったそうです。
地元の方によれば、かなり長い間、開業当時の敷地の一部が南湖院跡地として残され、高い塀に囲まれたままずっと放置されていたそうです。1979(昭和54)年、住居型の有料老人ホームが建設されはじめたものの、おそらく今残されている敷地の半分くらいはまったく手つかずのまま放置されていたようです。
「結核療養所だったことは、ここらへんの人はみんな知っていたけど、新しく越して来た人にはわざわざ言わない感じだったな。それでも暮らしていれば何となくわかっちゃうんだよね。
だからといって不気味がってる人もいないし、禁句っていうわけでもなかった。」
「それにここらへんは、小中学生の通学路だからね。子供達の間でも幽霊話とかがあるとか聞いたことないけどな。あったのかね?」
南湖院を開設した医師・高田畊安たちがどのような活動をしていたのか、下記のHPでうかがい知ることができます。
●住宅型有料老人ホーム「茅ヶ崎 太陽の郷」:南湖院の歴史
https://www.taiyonosato.co.jp/nankoin-history/
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<編集後記>
療養所は本当にいい場所で、視界に入るのは「緑」と「青い空」です。ここで治療を受けられた人たちはよかったと思いますが、いつの時代も医療関係者は戦いの連続だと感じます。日本がまだずっと貧しい時代のこと。戦争や空襲で家族や友人を亡くした方は大勢いますが、「結核」で家族を失った人達が意外に多いのに驚かされます。隠さなくてはいけないというのはつらかったですよね。
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