横浜|もうひとつの外国人墓地:根岸外国人墓地(中区)

外国人墓地というと山手外人墓地が有名ですが、横浜には4か所の外国人墓地があります。他3カ所は、英連邦戦没者墓地(保土ヶ谷区狩場町)、中華義荘(地蔵王廟・中区太平町)、そしてここ「根岸外国人墓地(中区仲尾台)」です。


4つあるのに、ここが”もうひとつの”と形容されるのは、山手外人墓地と同じ区内にありながら、1967(昭和42)年頃まで荒れた状態で放置されたため、あまりに知られていなかったといいます。しかも、連合軍による接収や書類の没収などによって過去のことがよくわからないとか。

現在では、横浜山手ライオンズクラブがこの慰霊碑を建てていますが、それまでにもさまざまなことがあり、また入口にある説明版をめぐって地域住民たちが声を上げたという過去があります。

 


 

ここには、進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれた、たくさんの「GIベビー」が埋葬されていると言われています。入口の横にある案内板は、1988年に横浜山手ライオンズクラブによって寄贈されたもので、記載内容はライオンズクラブと墓地を管理する横浜市が協議して作成したものです。それにも関わらず、文言を市が削除・書き換えていたそうです。


 

削除されたのは英文の「第2次大戦後に外国軍人軍属と日本人女性との間に生まれた数多くの子どもたちが埋葬されている」にあたる部分。そして2000年に市が案内板を補修した際に「第2次大戦後に埋葬された嬰児(幼児)など、埋葬者名が不明なものも多い」に書き換え、日本語の説明文も同じ内容になっていたとか。
市の「(GIベビーを)埋葬したと証明する記録がない」という主張に対し地域住民らは「暗い過去ともしっかりと向き合うべき」と反発した、といったことがあったようです。

 

この墓地に隣接する市立仲尾台中学校教論だった田村泰治さんは、長年、この墓地の手入れや調査に当たってきたそうです。この外国人墓地の開設は1902(明治35)年頃とされていますが、田村さんの調査によれば開設は1880(明治13)年。
「山手外国人墓地が手狭になったことと、山手周辺は人家も多く伝染病などで埋葬された場合、伝播の恐れがあったことが挙げられる」とのこと。 

 

 


ここにあるお墓は1200基ほどで、現在ある墓石は200基くらい。21カ国の人が眠っているそうです。
敷地に入るとすぐ左に管理事務所があり、右側には結構急な石段がありました。登っていくと、その上にも墓地がありました。横に長く広い敷地で、その上にまたもう一段、同じように横長の墓地があり、雛壇のようになっています。
前述のお墓はいわゆる「1階部分」です。

 

ここがいわば「2階」。


 

さまざまな国の外国人の方が眠っています。

 

 

上に行くほど簡素な碑と寂しげな雰囲気になるのですが、かつては雑草が生い茂っていたそうです。「3階」はこんな感じ。この3階部分とその上は、子供達専用の区画みたいになっていました。
土に埋もれてしまった墓石もあるし、曲がって設置されたり、間隔もまばらなことからも、現在の墓地の販売・管理に慣れていると、これだけでも悲しい気持ちになってしまいます。


 

墓石には、①亡くなったお子さんのお名前と、②生まれた日、③死亡日、④両親の名前、⑤亡くなった子供に捧げる言葉、が彫られていました。全部彫られているものばかりではないけれど、①②③⑤は彫られているものが多かったです。

ここで気になったのですが、墓石に彫られた②生まれた日は、1960(昭和35)年前後のものが多いんです。そうなると、墓石があるのはGIベビーのものでも、置き去りにされた子供ではないことがわかります。

また、③死亡日は生まれた日の翌日のものもあれば、2週間後や1~2か月後、中には1年くらい後のものです。両親の名前のうち母親の名前は日本人ですが、旦那さんの姓を名乗っています。GIベビーでなくても、1960年前後には生まれて間もなく亡くなってしまう子供がこんなにいたのかと悲しくなります。「私達の天使」みたいな言葉が彫られているのを見ると余計に。



ただそれらを理由に、「ここにはGIベビーはひとりも埋葬されていない。都市伝説だ」とか「数はわずかだ」というのは違うように思います。妙な隙間が気になるものの、「そこには木の十字架がたくさん置かれていた。だからやっぱりGIベビーが900人近くも埋葬されたんだ」と言い切るのもまた難しいとも感じました。 

 


 
 
「4階」に行ってみます。階段も簡素になります。
 

 

かつて、木製の十字架が置かれていたそうですが、今は何もありません。ただ、生まれた子供には責任がないのに、そんな風に捨てられて置き去りにされて、埋葬された子供がひとりでもここに眠っているかもしれない、お参りに来る人ももういないのかもしれない、と思うと、ただただ手を合わせるしかありません。


戦後のある時期、山下外国人墓地の門の前に明らかにハーフとみられる嬰児の遺体が連日のように置き去りにされていたと言います。
ここだけでなく、嬰児の遺体あるいは子供が捨てられている光景は、日本国内、場所を問わずさまざまところで起きていました。
以前、エリザベス・サンダースホームと創設者の澤田美喜さんについて書きましたが、敗戦国の女性たちが妊娠という事態から逃れることも難しい時代。望まれなかった子ども、まだ望まれて生まれても”敗戦の恥辱””敵国の子供”といった母子に向けられる厳しい眼差し、養育能力・環境などさまざまな理由で捨てられた子供達がいたことは事実です。

焼け野原になった街でバラックを建てて雨風をしのぎ、戦中よりひどい食糧難で餓死者も出る中、女性が生きていくため、あるいは働けなくなった家族を養うため、確実にお金を稼げたのが身体を売ることでした。
中でも進駐軍兵士相手が一番お金がよかったと言われています。戦前に安定したよい暮らしをしていたお嬢さんや奥様でさえも「パンパン」「パン助」と蔑まれる娼婦にならざるを得なかったという酷い時代、こうした女性たちは日本全国で約15万人もいたとも言われています。

アメリカにとっては、兵士たちが敗戦国の女性に子供を産ませた、あるいはレイプによってできてしまった子供がいるというのは隠したかったのだと思います。あるとき米軍兵士がこの辺りに来てボランティアと称して掃除をしたとか、GHQが書類をすべて奪うように持ち去ったなどという噂もあります。

その時代にその場所に生きていない私達は「それらが事実である」と証言もできず、「あり得る」とも言えませんが。



そこで、管理事務所の方に聞いてみました。

現在は、遺族に墓石を購入できた人達のところのみ残っている。
木の十字架が並んでいた時期があったというが、墓石を買えなかった人達のもの。十字架は撤去されているため、もしかしたら今、通路として歩いている下にご遺骨が眠っているかもしれない。
どこに誰が、誰を、そして何人くらいを埋葬していたかはわからない。
資料がなく、入口の案内板に書かれていることしかわかっていない。

墓石が残っていて日本にご遺族がいる場合、年に1~2回お墓参りに来ている様子があり、年々減っているとはいえ、それでも30組くらい。
GIベビーだけがひっそり葬られているかのような噂もあり、そのことで心を痛めて訪れる人が多いが、実際のところさまざまな理由で命を落とした外国人が埋葬されている。

たとえば、関東大震災犠牲者に関しては「大震災外国人犠牲者慰霊碑」が建てられている。また、入口近くにあるドイツの船が沈没したときの犠牲者(※1)のお墓がある。
現在でも毎年法要が行われ、100~200人の方がお墓参りに訪れている。

※1:1942(昭和17)年、横浜港に係留中のドイツ輸送船ウッケルマルク号が大爆発し、近くに係留していたドイツ仮装巡洋艦トール号、日本海軍の徴用船第三雲海丸、ドイツの汽船路移転号にまで引火し大惨事となり、このとき犠牲になったドイツ人乗組員61人の一部が埋葬されている。

片羽の天使の像があるが、それが横浜山手ライオンズクラブが寄贈したもので、それが現在GIベビーと言われる子供達の慰霊碑となっている。
もしお参りをするならそこがいいかもしれない。

GIベビーはどのくらい埋葬されているのか?というと、記録が残っていないため、わからない。不確かなことは言えない。
上の方に行くと、子供のお墓があったと思うが、GIベビーとは時代が合わない。それに、もし街娼の人であれば子供が生まれるまで仕事ができない、つまりは生活が成り立たないので、中絶をした人の方が多かったと思う。

GIベビーの埋葬がなかったとは言えないが、世間で言われているほど多くはないのではないか?おそらく、10人~20人くらいではないか?と思う。

 

とのことでした。
日本国内で調べられる数字を見ても混血児たちはたくさんいたし、彼らは一体どこへいったのだろう?仮に900人がここに眠っているとしても、多いわけではないようにも感じます。イメージだけで勝手なことは言えないものの、進駐軍が多かった横浜で10~20人?もっと多そうだけどな・・・という疑問が。

また、中絶に関しても当時は、かなり大変だったと聞きます。まずはコネを頼って闇で中絶してくれる医者のところへ行き、手術は麻酔を使わずに行ったために凄まじい苦痛を伴い、さらに回復までの時間を考えると恐ろしさのあまりに躊躇し、中絶ができる期間を過ぎてしまうケースなどもあったとか。

だからといって(今回のことは)嘘をついているとか隠してるともいえず、立場上、ちゃんとした記録がないのに、断言できないのもわかる、あくまでも施設の管理者であってガイドではありません。そうした中、わかっていることやわからないこと、憶測や推測、担当者の主観など分けて答えてくださったと思います。

サラリーマン的には理解ができる対応ですが、実際に横浜の史実を正しく調べて残したいという人達と、国・行政との間にはすごい溝がありそうだなというのは感じました。
混乱していた時代の、とてもつらい出来事なので、資料として残すというだけでも大変だと思います。それでも、たった数十年前のことでもわからなくなってしまうことって本当に多いですよね。「戦争のことを語り継ごう」というのはいいけれど、実際にそれをしようとわずかに足を踏み入れただけで、何と複雑な気持ちになることが多いことか。

時間が経つにつれて、その時代を知る人も、それを継承する人も少なくなり、風化してしまうかもしれません。わずかな記録さえも書き換えられたり、なくなってしまうかもしれません。
1960年代に入ると、混血児たちは「ハーフ」と呼び名が代わり、もてはやされるようになっていきました。向けられる視線が変わったとしても、時代や風向きが変わっただけで、こうした問題が解決したとか「終わった」わけではありません。
仮に終わったとしても、ひっそり埋葬されたGIベビーの人数や性別、両親のことなどが一切わからなくてもゼロでないのなら、その事実は消し去ってはいけないと思います。また、その時代にそうしてでも生きていかなければならなかった人たちがいたことも忘れてはいけないと思います。  

 

またこうしたことは書いていきたいと思います。

 

 

*  *  *  *  *  *
<編集後記>
山手や根岸の山の上は冬は寒く風も強く、気温が0度くらいまで下がることも珍しくないそうです。この墓地では、冬の朝には霜が降り、お昼近くなるとそれが溶けてぬかるむし、雨の日もまともに歩けない、そのため寒い時期は殆ど人が来ないそうです。
わざと寂しげな写真を撮ろうとしたわけでなくて、たまたまそういう時期に来てしまいました。でも、人が滅多に来ない時期に訪れた珍客に驚きつつも、土の上でも下でも歓迎していただけたのなら何よりです。
夏は比較的涼しいそうです。行かれるなら冬を避けて行くことをお薦めします。


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