東京|新東京ビルヂング/「9人の写真家が見た水俣」展(2)

前回の続きです。ここがビル2階にあるアートスペース。オフィスビルとはいえ、ビルの1階~2階は公共施設みたいな雰囲気もあり、気兼ねなく入れます。ちょうど2022(令和4)年7月4日~30日まで「9人の写真家が見た水俣」の写真展が行われていました。

1969(昭和44)年に出版された石牟礼道子(いしむれ みちこ)さんの「苦海浄土」、昨年秋に公開された映画「MINAMATA」は有名ですが、数十年に渡って水俣に足を運んで撮られてきた写真はどれも胸に迫るものがあります。
でも、つらいものばかりではありません。



 

水俣病について
1956(昭和31)年5月1日、原因不明の疾患発生がチッソ付属病院から水俣保健所に届けられました。
まず、チッソとはどんな会社か?端折っていうと、明治後期に創業した化学工業メーカー。創業者はいわゆる政商で、水俣を拠点に新興財閥といわれるまでになった国策企業。化学製品の製造過程の有機水銀を流し続けていました。



公害は大抵、植物、鳥や小動物、海藻や魚や貝、人間なら胎児や乳幼児など弱く小さく、抵抗力もなく、声を上げられない者たちから被害が現れます。水俣病では「踊り狂う猫」の姿が見られたそうですが、その姿を見てまさか大量の水銀がこの海に流されていることが原因とは・・。




原因が水俣湾の魚であることがほぼ特定できたため、熊本県が漁獲禁止について厚生省(現:厚生労働省)に食品衛生法の適用を照会したにも関わらず、回答は「水俣湾の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな証拠はない」だったそうです。
国も行政も司法も企業もなかなか認めるものではありませんが、明らかな証拠というのはどの程度なのか。もし、このときに対応していたらと考えずにはいらません。


結局、その後も汚染は続き、国と熊本県の法的責任が確定したのは、公式な確認から50年近く経った2004年の最高裁判決。行政から水俣病と認定された患者は約3千人、認定はされないが一定の症状がある人を対象とする救済に約5万人と言われています。
あくまでも行政が認定した人数なので、認定されなかった人たちを含めるとどのくらいになるのだろう。


本当はひとりひとりの人生があるから数云々ではないのだけど、自分が住んでいる町でこれだけの人に被害が出ていたら?
これだけの人に影響があれば、当然、地域としての被害も出てしまいます。

写真に合掌しても仕方ないかもしれないけれど・・・

 
9人の写真家たちの言葉も補記されています。
どんなことをきかっけに、どんな思いで撮り続けたのか。一部文字起こしをしました。

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桑原史成さん(1936ー)
 今さらながら、水俣病は病気ではない。僕が大学を終えた年の1960年、一地域の水俣で魚介類に異変が起き、生命まで奪われる”水俣で奇病”が発生しているという『週刊朝日』(1960年5月5日号)の特集記事を目にしたときの衝撃を今も忘れることは出来ない。
 同年7月14日、水俣駅前にそそり立つ新日窒水俣工場を目前にした時、武者震いにも似た感覚が全身を走ったのを思い出す。
「写真で何ができるか?」、撮影を開始した当初の問いに、果たして答えは出せたのか、自問は残る。
 水俣の取材は他のテーマとの間隙でしばしば足を運び60年の歳月が経過した。僕の記録が何程かの爪痕を残すことができたのならば、受難を強いられた患者たちからの数限りないメッセージを後世に届けられることを望むものである。
 写真の中におさまっていただいた方々に感謝を申し上げたい。

 


芥川 仁さん(1947ー)
「水俣・厳存する風景」1978年~2021年
漁師たちは
ただ
目の前の海で
日々の糧として魚を捕って
食べていただけなのに

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塩田武史さん(1945ー2014)
「出会ってしまったという責任」
 塩田武史と水俣病患者との出会いは、働きながら法政大学に通っていた1967年、新聞記者を頼りに最も重症の胎児性水俣病患者を訪れたとき。玄関まで聞こえる「グー、グワー」といううなり声、光のない部屋に寝転ぶ患者。頭が真っ白になり、話もろくにできずに立ち去った。東京に戻ると、だれも水俣病を知らない日常があった。
 覚悟を決め、翌年の夏休みに再び訪れた。暗い部屋で押したスローシャッター。1枚だけ鮮明に写っていた。見えない瞳を大きく見開く少年の姿だ。「この1枚がなかったら、写真家になっていなかった。患者を撮るのはしんどい。でも、残さなければ・・・・・・」と。
 この事実を知って欲しい、彼らに対して何か手助けがしたいと、大学を卒業した、70年から水俣に移り住み、15年間患者やその家族を撮った。

(文:塩田弘美)

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水俣病の被害は命や健康を奪われることにとどまりませんでした。
被害者を含む市民すべてが偏見や差別を受け、物が売れない、人が来ない、就職を断られる、婚約が解消されるなどの被害も受けています。よき隣人や仲間だった人達の間で分断もおきました。いまだに、水俣市の中学校の生徒が部活動の試合で「水俣病、触るな」など心無い言葉を投げかけられた、ということが起こったそうです。
※原発事故のときも同じでしたね。

時間を遡って無くすことが出来たらどれだけいいだろう。
今すぐにあらゆる公害を止めることはできなくても、被害者が二重三重に苦しむことは減らせるかもしれない。
事実に基づかない風評被害、偏見差別、非難・中傷は本当に恐ろしく、悲しい言動です。温かな関心を持ち、正しく知ることで避けられる被害があることも知って欲しいと思います。

水俣にいない私達は、本来、無知や無関心、そして自分が加害者になることをもっともっと怖れるべきなのだと思います。水俣の人々を怖れるのではなく。
知るのは確かに怖いけれど。

きっと私達が知らないだけで、別の公害は起きているのかもしれません。決して他人事ではないのです。

 

こうした記録は多くの人に見て欲しいと思っています。



一般社団法人 水俣病を語り継ぐ会:

https://kataritugu.jimdofree.com/

映画「MINAMATA」:
https://longride.jp/minamata/



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<編集後記>
私が子供の頃(昭和です)、小学校高学年にもなると社会科の授業の一環として、公害問題について調べてレポートを書いたり、班ごとの発表や模造紙に書いて教室に貼ったりなどをする時間があり「足尾銅山」と「水俣病」を選んだことは覚えています。

歴史に「もし」はないと言われても、やはり考えてしまいます。公害や薬害の問題が起こるたびに、何も変わってない・・・と、ひどい気分になります。福島第一原発事故のときは特に感じました。既視感あるなあと。
昭和の時代ほど露骨さはなくなり、言葉は耳障り良くなっても、ツナ缶のラベルを「カニ缶」にしたようなもの、結局中身はツナ缶のまま。

それと、東京出身の自分がこんなことは言いづらいのですが、もしこれが東京湾で起きたことだったら、国や企業はどう対応していたのだろう?メディアはどう動いたのだろう?



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