鎌倉|車窓から見える観音像:大船観音

JR東海道線本線&横須賀線の大船駅を通るときに、車窓から見える大きな観音像。
立像でも坐像でもなく、胸像です。当初は立像を計画していたそうですが、地層が東側斜面に崩れる地層で丘の突端であること、坐像では地形との調和がとれない等の理由から胸像なったとか。



大船駅を出たところから見ると、立像に見えます。

 


 大船駅から徒歩10分くらいでしょうか。参道は坂道です。参拝料は大人300円。英語版のパンフレットもありました。



中に入ると、階段の向こうに観音様が!登りきると、胸像であることがわかります。



観音様の中(胎内と呼んでいる)に入り、お参りすることができます。観音像と千体仏があり、戦争・原爆の被害者のご供養をしています。




着工は1929(昭和4)年なのに、完成は1960(昭和35)年??
世界恐慌で資金が集まらず、1934(昭和9)年には工事が中断され、未完成のまま23年間も放置されてしまったとか。もしかしたら、その間にあった出来事や係わった人達の思いが、建立や戦没者供養に繋がっていったのかもしれません。



千体仏供養。曜日は決まっていますが、申し込むと彫らせてくれるそうです。

1939(昭和14)年頃の日本は、日本軍兵士を讃える「英霊」が奉祀されていく風潮がありました。そんな中、高階瓏仙禅師が『大船観音完成促進総願文』(昭和14年10月)に、日本人も中国人も平等に供養していくことを主眼に、大船観音完成を願う旨を明記しています。



今般忠霊顕彰会の発起に依り皇軍の英霊は各地に奉祀されるることとなれり。然れども未だ支那軍戦死者の霊をも平等に供養する表式無し。
依って本会は日支親善の情誼及び宗教的超越観地より怨親平等の大慈悲心に基づき皇軍幾萬の英霊と倶に同じく興亜戦線の犠牲たる支那軍の戦霊をも併せ祀りて平等利益の法楽を薦め離苦得楽の冥福を回向してーー中略ーー目下大船駅頭に聳ゆる未完成なる大観音の完成を達成して興亜戦霊総供養の一大記念佛と為さんと欲す



終戦からおよそ5年後、朝鮮戦争の特需で高度経済成長の時代に入り、未完成のまま荒れ果てた観音像を完成させる機運が高まってきます。高階瓏仙禅師のご学友だった東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者・五島慶太氏も再建の発起人に加わったことから、一気に再建が進んだとか(五島慶太氏は熱心な法華経の信者だったご両親の姿勢から、仏教の感化を受けている)。
こうした流れがあり、戦没者供養を行うようになったそうです。置いてあるノートは「観音様への伝言帳」。参拝者の祈りと感謝の言葉が綴られています。



さらに完成から10年経った1970(昭和45)年8月、神奈川県原爆被災者の会において被爆25年の記念事業として原爆犠牲者慰霊碑建立されました。



戦争慰霊には必ずといっていいほど、観音様ですよね。




戦争があった日もどんどん遠くなります。記録も伝えられる人たちもどんどん少なくなっていきます。また、慰霊碑も維持管理が大変で少なくなってきているそうですが、せめて手を合わせる気持ちや時間までは失いたくないものです。というより、もう二度と戦争が起きないように、世界のどこかで起きている紛争などが一刻も早く止まるよう、願い続けなければと思います。


●大船観音寺https://oofuna-kannon.or.jp/


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