台湾|加害の歴史を知る:台湾初の平和と女性の人権資料館「阿マの家」(台北市大同區)(2)
台湾初の平和と女性の人権資料館の記事の続編です。慰安婦の存在が日本の国会や司法の場で取り上げられるようになったのは1991(平成3)年の夏、韓国の元・慰安婦、金学順(キム ハクスン)さんが名乗り出て重い証言をしたことに始まり、翌年には旧日本軍の慰安婦に関する記録も発見されました。
他国の被害者たちも次々と名乗り出て、日本政府に対し謝罪と賠償を求める裁判も行われるようになりました。台湾の慰安婦問題は声を上げた時期が少し遅く、全般的に控え目な印象ですが、つらい思いをした方がいることは同じです。
内容が内容だけに、つらくなりそうな方はまたのお越しをお待ちしております。
台湾の慰安婦問題に触れる前に、そもそもの話としての「慰安婦問題」について、少し書いてみたいと思います。
慰安婦問題とは
日本軍が1931(昭和6)年から1945(昭和20)年の第二次大戦中に、占領地や植民地で女性を性の奴隷として扱ってきたという人権侵害問題です。
現在でもいろいろ調査や研究はされ続けているようですが、一説によれば。この制度ができたのは1932(昭和7)年の上海事変の頃。上海のいたるところで日本兵による現地の中国人女性たちへの暴行事件が多発していました。日本軍の岡村寧次参謀長が、治安維持や規律回復(性病蔓延の防止スパイ対策等)を目的として海軍の事例に倣い、陸軍初の慰安所を設置することを主導。ちなみに海軍では民間に委託する形で設置・管理した施設だったそうです。
| 被害者にとって終世、どうやっても癒すことのできない心身の傷となって残った。 |
太平洋戦争で日本が海外へ送り出した兵士はおよそ350万人。陸軍の慰安所が最初に集めたのは日本の売春婦や酌婦たちでしたが、侵略が進むに連れ、慰安婦の数も足りなくなっていきました。そのため、日本軍が侵略したあらゆる土地、中国大陸から海南島、香港、フィリピン、インドネシア、ビルマ、沖縄、朝鮮半島、台湾など、全ての場所に慰安婦にさせられた女性たちが居たともいわれています。
数えで17歳の時、就労のため中国へ向かっていたときに日本将校に声を掛けられ、部隊まで連れて行かれて「慰安婦」にされてしまったそうです。1990年、日本政府が慰安婦について軍の関与を否定したことを知り、韓国で初めて自身が日本軍の「慰安婦」被害者であることを証言しました。金学順さんについては、また機会があれば詳しく記事にしたいと思います。
金学順さんが証言を行った翌年の1992年、日本の歴史学者・吉見義明さんが防衛庁防衛研究所図書館で発見した慰安婦に関する資料は、第二次大戦時の慰安婦徴集と渡航に関する軍の文書でした。その資料のコピーを朝日新聞記者に渡したのを機に、事態は大きく動き出しました。そして、日本政府は、軍による慰安所設置に関与していた事実を認めざるを得なくなりました。
台湾の慰安婦問題の最初の証拠は、同じ1992年2月、伊東秀子元議員が防衛庁の図書館で見つけた3通の電報でした。この電報には、日本の台湾軍司令部が南方軍の命令を受けて慰安婦を戦地に送り込んだこと、その渡航許可を陸軍省が与えていることなどが記されていたそうです。
これを機に、台湾の女性団体「婦女救援基金会」が慰安婦問題についてのホットラインを開設し、調査に乗り出しました。7年間で計400本以上の電話が寄せられ、自ら名乗り出た被害者は41件にも上り、全体では正確な人数は不明ですが、推定2000名ほどいたのではないか?とも言われています。
台湾の元従軍慰安婦が初めて公の場に出たのは、1992(平成4)年の夏。足元だけがのぞく黒い垂れ幕の向こう側からの訴えでした。
| 台湾にこれだけ慰安所があったという。 |
50年も心身の傷を抱えて苦しみ続け、心も口も閉ざしてきた阿嬷(おばあちゃん)たち。つらい過去の記憶を紐解き、自分の心と向き合い、言葉を紡ぎ、ついには顔を上げ、強く訴えていく。このプロセスがどれほど壮絶なものであっただろうと思います。
日本人によって当時の資料が隠滅されてしまっていたこと、日本に友好的な雰囲気が続いていること、韓国と比べると台湾の元慰安婦たちはさまざまな理由により自分の経験を語りたがらなかったこと(語れなかったこと)など、外的な理由も大きかったのではないかと感じます。
慰安婦に徴集された時の年齢は、16歳から25歳前後に集中し、最年少は14歳、最高齢が40歳くらい。
連れてこられたのは、家が貧しく、学校教育もろくに受けられなかった人が多かったという(多いというだけであって、ごく普通の家庭や割と裕福な家庭の出身者もいたようです)。料亭や酒場、旅館で芸者、レストランの女給として働いた経験がある人が多いものの、3分の1は家事や農作業に従事し、飲食店や水商売などの経験のない人たちだったとか。
軍の売店の仕事、食堂での仕事、掃除や洗濯など家政婦的な仕事、看護師の仕事などと聞かされて連れてこられて、到着してから事実(慰安の仕事)であることを知ったといいます。
フィリピンの阿嬷・Menen Castilloさんの刺繍作品。 |
問われるべきことのひとつは、「国家が軍事力を使って、弱者である一般の女性たちに対して一体何をしたか?」なんですよね。いくら戦争が起きたからといって、なぜ、彼女たちがこんなひどい目に遭わなくてはならなかったのか。この段階でも十分、泣けるし、胸○悪いです。
ですが、また数日後、続きを書きます。
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【編集後記】
どうしようもない男性の性欲をどうにかせねば・・ということだと思うのですが、何でそれを女性が何とかしなきゃいけないんでしょうか??女性の体を使って一時的な解消をさせて、とりあえず対策したよ、みたいな発想って変ですよね。そんなもん、女性抜きの対策を考えてくれよと。若かりし頃はこんなふうに思いましたが、あながち間違っていなかったなあと思います。
当時の医学はどうだったのだろう?男性の性欲を抑制するような薬の開発をするとか、そういう方向にはならなかったのでしょうか??それを抑制したら闘えないという意見も出てきそうですが。それでも慰安婦に頼らなかった人もいれば、まして強姦などしなかった人もいるわけで。そういう人たちが何故それで乗り切れたのか?そっちも研究ってされているのかな?
そっちを考えないと、結局また次の世代の慰安婦問題って出てくると思いますよね。
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