台湾|加害の歴史を知る:台湾初の平和と女性の人権資料館「阿マの家」(台北市大同區)(3)

台湾初の平和と女性の人権資料館の記事の続編です。こうした被害の話は「抵抗したり逃げることはできなかったのか?」という意見が出る唯一のものという気がします。当時は日本国内でも抵抗できる状況ではなかったというのに、台湾の人々が、日本の軍人や警察に抵抗することができたでしょうか?

緊張と恐怖が支配する中、通学中に警察官から呼び止められてそのまま連行された事例もあったそうです。いつ誰が彼らの目に留まり、被害者になってしまうのか誰も予測がつかなった(防ぎようがなかった)はず。今回もひどいお話や胸○悪いお話となりますので、つらくなりそうな方はまたのお越しをお待ちしております。

 

 

彼女たちの背景に、こうした権力や武力もありましたが、貧困もありました。悲しいことに、親が娘を売ったというケースもあったそうです。
時代も大きく異なるため、今のように情報を得られる機会もありません。親にも逆らえず、教育を受けられなかった彼女たちが自分の頭で考えて、話を疑ったり、断ったりなどできるはずもありません。


集められた女性たちは、台湾各地や海外にあった軍港や軍需工場に隣接する施設に送られましたが、兵士の妻たちや引率の日本人警察官の女性も慰安婦として働かされていたそうです。働かされていたのはお年頃の女性たちが多く、理由や経緯は何であれそういうことがあったと知られれば、大変なことになります。
夫や婚約者が兵士として軍に徴用されている間に被害にあった女性たちもいて、彼女たちは戦地から戻った夫に事実を打ち明けることができず、何十年間もひとりで苦しみを抱えて暮らすこととなりました。
心身だけでなく、社会的にも大きな傷や負担を負わされることになりました。

 

台湾の女性であるにも関わらず日本女性の名前を付けられ、”慰安”に従事させられた。


館内には、被害に遭った彼女たちの肉声を録音したものと、それらを書き起こした文章の展示がされています。また、裁判の陳述書には、日本兵たちによる暴力や殺人未遂、慰安婦にされたことによる周囲からの差別に苦しみ、それらに耐えながら生きてきた彼女たちの悲痛な想いが綴られています。


読んでいるとそれのどこが「慰安」なのか?と思うような話ばかりです。婦女救援基金会による調査で判明したいくつかの事例をご紹介します。

【事例1】
高雄に着いた時には、すでに夜が明けていました。そこで沖縄から来た10名余りの女性と合流し、船に1週間ほど揺られ、どこかに上陸した後、またトラックに載せられました。そして到着したのは、椰子の木で作られた大きな建物で、一人に一部屋あてがわれました。来る前に聞かされていた『軍の売店で働く』という話は全くの嘘だったと、そこで知ったのです。

【事例2】 
あそこで私たちは、毎回目をじっと閉じて耐えていました。兵隊と恋愛するなどということはありません。ベテラン慰安婦に『あんたたちは軍の慰問に来たのだから、軍人さんをお慰めして、お国に奉仕しなくてはいけない』と言い聞かされました。同情してくれる日本兵もいましたが、私たちを打つ人もいて、恐ろしい思いをしました。


 【事例3】
日本兵には悪い人がいて、まるでアリをひねりつぶすかのように平気で人を殴るのです。私たちは鍋に放り込まれた魚も同じで、煮るなり焼くなり彼らの思いのままでした。ある日、一人の日本人に『こんにちは』と挨拶すると、いきなり叩かれました。その人は酔っていたのです。急いで部屋に逃げ込んで鍵を掛けると、外から突き刺された刀の刃が戸板からにゅっと出て来て、慌ててもう一方の出口から逃げて便所に隠れました。それでも後で慰安所の主人に、その日本兵に謝るよう言われました。その時以来、叩かれた私の片耳は聞こえません。

 


当時、彼女たちが慰安の仕事をさせられたのは、1日に3回~20数回、最高で1日60回というケースもあったそうです。病気になっても、生理でも、妊娠中や産後でも休ませてもらえることはなく、多くの女性が脅しの下に強要されていたそうです。

体だけでも相当おかしくなっているはずです。現代でもこうした被害に遭ってしまった女性の中には、人工肛門をつけなければならなくなった方や、殴る蹴るなどの暴力によって障害が残った方が居たりと、本当に目も耳も塞ぎたくなるようなひどい損傷を受けた方も少なくありません。当時としてはそうした処置や治療はどうしていたのでしょうか?そこまでいかなくてとも、炎症が起きていたり、骨折や脱臼をしていたりと、つらい状態だっただろうと思います。
また、ただでさえ女性の体に負担のかかる中絶手術を行うにしても、物資が不足した戦時下では、衛生面も医薬品面でも十分な環境ではなかったはずです。また、性病に罹ってしまった方もいたと思います。体の痛みだけでも耐えがたい苦痛があったことが想像できます。

さらに気持ち悪い話で申し訳ないのですが、避妊具を使わなかったり、洗ったものを繰り返し使用していたりもしたそうです。人権も何もあったものではないし、犯罪と言っていいと思います。



 

あと、この写真も非常に気持ち悪いです。群がるなよ。 

 

話は現代に移りますが、性被害にあった女性が立つと、性に対して歪んだ興味を持った男性たちが大量に傍聴に押し寄せることがあるそうです。本当にひどい二次被害だと思います。ご本人はもちろんですが、関係者の方々、また関係者ではなくとも同じ被害者の立場の方、身近なところに被害者に遭われた方がいるという方々にとってはひどい屈辱です。

そんな人もいるような世の中で、自分が被害者であることを名乗り出るということが、どれだけ勇気が要ったことか。それでも黙って居られなかった彼女たちがどんな思いだったのか、どのような闘いをしてきたのか。
少しでも温かな関心を持っていただけたらと思います。

*  *  *  *  *  *
【編集後記】 
「女性を慰安婦として召集したのは戦力増強のためであり、実際に従軍慰安婦がいた部隊といなかった部隊では、兵士たちの活躍の度合いが違う」なんて意見もどこかで読んだことがあった。知れば知るほど、ぞっとすることばかり。
”阿嬤”と呼ばれる年齢を迎えることなく、命を落としてしまった人、自らその尊い命を断ってしまった人もいる。晩年まで生き抜くことができた人たちも、「死んだほうがマシ」「いっそ、あの時死んでいたら」という思いが頭をよぎったことがあったと思う。それほどの苦痛を他者に与え続けることになる行為とは、いったいどれほど重いものなのか。
生きているから大したことがなかったわけじゃない、何も語らないから大丈夫というわけじゃない。何より、被害者が生きていること、その後長く生きたことを当たり前みたいに思わないでほしいと思う。知れば知るほどそう思う。
そして私たちが今知ることができるのは生き抜いた女性たちの言葉であり、亡くなった人たちは語ることさえできなかったのだということも忘れないでほしい。彼女たちの気持ちはそうそう理解できるものではないので、最終的に行き着くところは「あなたちのことは忘れないよ」になるんじゃないかと思っている。

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