台湾|橋からの眺め:台北最古の歩道橋「平樂天橋」と1927年竣工「仁安医院」(台北市大同區)
大稲埕慈聖宮のすぐ近く、涼州街と延平北路との交差点に妙に古い歩道橋がありました。何の変哲もなく、何で新しくしないのか?という感じですが、レトロ建築好きには妙にそそられるものがありますよね。地味だけど、何とも味わい深いこの歩道橋、興味が湧いたので調べてみました。
1968年に架けられた「平樂天橋(ピンルォ ティエンチャオ)」という台北に現存している一番古い歩道橋なのだそう(2026年5月時点)。日本統治時代にも歩道橋はありましたが今はもう残っておらず、ここは、台北が初めて造った歩道橋で、しかも市民の寄付によって架けられたため非常に大切にされているそうです。
| 橋の長さは20.80メートル、橋桁の幅は3.75メートル |
1960年代は、大稲埕の発展の黄金時代であり、この道路も非常に車の往来が激しかったそうです。この道を挟んで太平小学校と永楽小学校があり、道路を横断中の子供が車にはねられて亡くなる事故が起きたことから、保護者たちの寄付によって建設されました。
中でも、漢方薬商を営んでいた于俊成氏は、地震も太平小学校に通う子供を持つ身であったことから、台北市政府に40万台湾ドルを寄付し、建設を支援、今のお金でいうと、1000万円以上になるのではないかとのこと。
この歩道橋が架けられた当時の台北は、急速な都市化と人口急増でさまざまな問題を抱えていました。自動車も急激に増加し、道路整備や近代的な交通安全対策の策定が追いついておらず、交通マナーや事故防止が社会的な課題になり始めた時期でもあったそうです。
それまで人力三輪車が主要な交通手段だったのに、1968年から市内では禁止になったとか。いかに交通が大混乱していたか、そんな中で起きてしまった事故でした。
それまで人力三輪車が主要な交通手段だったのに、1968年から市内では禁止になったとか。いかに交通が大混乱していたか、そんな中で起きてしまった事故でした。
住宅やインフラも含め建設ラッシュの最中。なのに、ベトナム戦争の影響や急激な経済成長に対し、セメントや鉄筋などの基礎的な建築資材が慢性的に不足・高騰し、建設遅延や違法建築の横行していたような時代でもありました。
だからか、質素というか、 飾り気なさ過ぎ、と思いますよね。
だからか、質素というか、 飾り気なさ過ぎ、と思いますよね。
レトロ建築好きとして、近くで見れば見るほど何か、におうゾ!( ̄●● ̄)
と思ったら、階段下にこのような銘板や説明書きがありました。
と思ったら、階段下にこのような銘板や説明書きがありました。
既に耐用年数を超えていることと、利用者も減っていることなどから、2014年に取り壊す予定だったそうです。その時になってはじめて、この歩道橋の下にある銘板を発見し、歴史的意義に気づいて、改めて調査を始め、事故のこと、寄付のことなど色々なことがわかったそう。
2025年2月、この歩道橋の保存を求める市民による請願が始まり、現在に至り、映画やミュージックビデオの撮影などにも使われていたり、活躍しているようです。
ちょうど訪れたときに、アート作品が並べられていましたが、何のイベントなのか、どんなアーティストのどういう意図の作品なのかはわかりませんでした。
ただ、次々と人がやってきて写真を撮っていました。
そして、この歩道橋から見える「仁安医院(レンアン イーユェン)」。
日本統治時代の1927年竣工。当時は太平町と呼ばれ、台湾人医師たちが開業した診療所が集中していた地域で、仁安医院は大稲埕でも最も有名な西洋医学の病院のひとつでした。それに、台湾総督府庁舎の余剰資材を使って建てられたのそうです。
仁安医院の柯謙諒院長は、1912年に公費生の資格を得て台湾総督府医学校に合格、医師として50年以上に渡り、内科、小児科のほか、外科、骨科、腹腔外科、胸部外科、泌尿科、そして、男性・女性避妊手術、梅毒といった性病に至るまで何でも診察した名医だったそうです。
色々な面で日本人の方が優遇されていた時代に、台湾総督府医学校に入学というだけでも相当優秀な方だったのだろうと思いますが、親子孫の三世代に渡り、医師としてここで活躍されていたそうです。
2003年に土地と建物をすべて台北市に寄贈されました。建物は、地震などの影響もあって傷んだまま、しばらく放置されていましたが、現在はコミュニティセンターとして再整備されています。館内の見学もできるようになっています。
平樂天橋:https://maps.app.goo.gl/B2GwF9dQ5uUb8hb98
解体されたあと、新たに歩道橋は造られるのか?は不明です。とりあえず、ここに平樂天橋があったことがわかるよう、地図の画像を貼っておきます。
仁安医院

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