2025-09-18

静岡|開国から約170年、ペリーロードを歩く(下田市)

下田の見どころは海ばかりではなく、かつて栄えたであろう古き港町の面影が残る場所がありました。そのうちのひとつがここ「ペリーロード」。1853(嘉永6)年7月8日、江戸湾の入口である浦賀(神奈川県横須賀市)にペリー提督率いる黒船が来航、開国を要求しました。

 

その翌年の1854(嘉永7)年5月、日米和親条約(神奈川条約)を締結。その条約の中に、下田と箱館の2港を開くことと、下田は即時開港および領事の駐在を認めることも記載され、下田は鎖国以来日本で初めて開港された港のひとつとなりました。締結に至るまで、ペリー提督が約300人の部下を引き連れ、幾度にも渡る交渉のために実際に歩いた道が、このペリーロードなのだそう。

 

 

それまで、ロシア船やイギリス船が近海をウロウロしても、オランダがやって来たときも幕府は開国を断固拒否。アメリカ艦隊もペリーが来る前に過去2回、開国を迫ったそうですが、幕府は拒否していたそうです。
それほど鎖国を貫いてきたのに、1859(安政6)年には横浜港が開港、その後に明治維新も始まったことを考えると、かなり強気かつ根気よい交渉だったと想像されます。令和を生きる日本人からすると、まあ、半ば脅しだったのかなあ、なんて。

海軍一家に生まれたとはいえ、日本に来たときのペリー57歳、かなりタフな ”おぢ”だったのだろうと思います。

 

 

坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟など幕末史に残る人物達も下田のまちを訪れたそうです。 

 

 

 

距離は約500mくらいで、まっすぐ歩くだけなら約10分程度だと思います。決して長くもない道と、広くもないエリアではあるけれど、とても雰囲気のある場所でした。来たのは昼間だけですが、ガス灯もあったので夜は雰囲気よさそうです。 
(ただ、通りを少し外れると静かな住宅街です)

 

かわいい喫茶店もありました。おそらく下田市のレトロ喫茶のひとつ。

 


こちらのソウルバー「TOSAYA」さん。
ソウルミュージック好きが全国から集う有名店なのだそう。このあたりは江戸末期~明治・大正時代の洋館や古民家が今でも数多く残っているそうですが、TOSAYAさんの建物は、江戸時代末期に建てられ、土佐からの客を迎え入れる船宿として使われていたものなんだそう。

ソウルバー TOSAYA(食べログ) 
https://tabelog.com/shizuoka/A2205/A220503/22003033/ 

 

 

 

このあたりの特徴、柳の木や石畳のほか、伊豆石やなまこ壁が独特の雰囲気を作り出しています。

伊豆石というのは、伊豆半島やその周辺で採れる石材の総称で、江戸城の石垣にも用いられています。伊豆石は、火山から流れ出した溶岩の「堅石」と、火山が噴出した火山灰や軽石からなる凝灰岩地層の「軟石」大別され、どちらも耐火性に優れているそうです。
軟石は加工がしやすさゆえに、蔵や神社の石段、石仏などにも広く利用されてきたとか。

良質で多種多様な石材が採れる、石材の町でもあったのですね。


そしてもうひとつ特徴的なのは、この「なまこ壁」。
土壁等の壁塗りの様式で、壁に平瓦を並べてその目地に漆喰を盛り付けて塗っていくのだそうですが、雨水が溜まらないよう盛った目地がなまこの形に似ているからと言われています。

「なまこ」の画像を検索すると、言われてみれば!とちょっと思った(笑)。

 

なまこ壁は、防火、保温、防湿などの効果に優れ、風の強い海辺の地域に適し、明治時代から昭和初期には各地で見られたのだそう。他の地域では、城郭や裕福な階級の家や蔵の壁に使われていたそうですが、下田をはじめとする伊豆南部では、一般家屋を含め、かなり広く使われてきたのだそう。

 

 


それには理由があって、1854(安政元)年11月4日、安政東海地震が発生、数回に渡る大津波の襲来で下田は倒壊や流出で壊滅的な状態になりました。そんな中、残ったわずか数戸の蔵はなまこ壁造りだったそうなので、耐震性も相当あるということでしょうか。

え?開国を決めて下田港も開港したんじゃないの?と思いましたが、幕府は復興のための特別助成金として資金の貸し付けを開始。そのお陰で公共施設や一般の家屋も、なまこ壁で造ることができたため、残っているものも多いようです。

 

 

せっかく復興に向けて歩み出したものの、横浜港が開港したため、下田港は開港からわずか5年間で、国際港としての役割を終えることになりました。



平日の昼間だからか本当に人が少なくてゆっくり散策できました。
他のところはあまり見かけなかった外国人観光客が、ここは数グループ来ていました。

 

で、ここでちょっと気になったことを。
首都圏から来たであろう母娘の旅行者の会話。年齢は70前後の母と40前半くらいの娘さん。

娘「素敵だね。でもよく残っているよね。」
母「下田は戦争で焼けなかったからじゃない?伊豆は別に何にもないし、
  疎開で子供達が来るようなところでしょ?」

・・・え?

 

まあ、江戸末期ものが残っているので、たまたまペリーロードのあたりはあまり焼けなかったのかもしれないけど、下田に、いや伊豆半島にも空襲も何もなかった?
それ本当?

グアムやテニアンを飛び立ったBー29は富士山を目標にして飛んできたとか、散々爆弾を落とした後、基地に戻る戦闘機は機体を軽くするために、積み残した爆弾を海辺の町に当たり前のように落として行ったという話も聞きます。
都市部のように人口が多いわけじゃないし、大規模な軍需工場群があったわけでもなさそうですが、地理的に考えると、目印になる富士山のすぐそばの半島に何も施設がないとも、敵が素通りするとも思えない・・・。何しろ戦争末期には日本全土を焼き尽くすような勢いだったと聞いている・・・、戦争資料の見過ぎ?いや、見過ぎと言えるほど見ていないけど、そう思う。

特に今年は戦後80年、余計気になりました。

1945(昭和20)年4月12日、下田に最初の空襲があり、終戦までの約4カ月くらいの間に7回も空襲があり、100人くらいの方が亡くなったのだそうです。
そういうのを知ると言葉がないですよね。ただただ、ご冥福を祈ります。

 

*  *  *  *  *
【編集後記】
娘さんはお母様の憶測話に、「そうだよね、戦争があったらもっと新しい街になっているよね」と納得。一部は間違いではないというか、本当に都市部のような焦土になったらそうかもしれないけれど、だからといって、下田に、伊豆半島に、何もなかったというのは、広げすぎているというか。こうして風化していくのでしょうか。
私は娘さんのように「そうだよね」と素直に言えないけれど、ただ疑問を感じただけで、詳しいことは何も知らない。でも、こんな美しくて静かな港町にも空襲があったという話は覚えておくことにする。人口も少なくて古い建物が残っているから空襲はなかったなんて決めつけて人に話さないようにする。そう思いました。
どこかに慰霊碑があるのかもしれないけど、この日は橋の上からご冥福を祈りました。

 

 

 

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