台湾|加害の歴史を知る:台湾初の平和と女性の人権資料館「阿マの家」(台北市大同區)(4)
台湾初の平和と女性の人権資料館の記事の続編です。前回、彼女たちがどんな経緯で慰安婦にされてしまったのか、どんな環境にいたのかについて少し触れました。また、彼女たちが生き抜いたこと、21世紀を生きる私たちがその重く貴重な証言を聞くことができることも決して当たり前ではないことについても書きました。
彼女たちが味わわされた塗炭の苦しみについて、その経験どころかその時代すら知らない私たちが記事を書くことは本当に難しいことだと感じています。今回もほんの少し読んだだけでも心がひりひりするような内容ですので、つらくなりそうな方はまたのお越しをお待ちしております。
慰安婦にさせられたことは彼女たちにとって癒し難い心身の傷となっただけでなく、社会や周囲の無理解や心無い言葉にも苦しむことになりした。1990年代に入ってから婦女救援基金会による心理支援プログラムが行われるようになりましたが、それまで半世紀もの間、ずっと一人で耐えてこれらたこと、その一方で、支援に繋がらなかった人たちもいると思うと、本当に言葉になりません。
元慰安婦の方が心理回復ワークショップで描いた「自身の身体」の絵。 |
事実を語るのに必要なのは言葉だけではありません。非言語による表現も見逃してはいけないと思います。
上の画像は、心理支援の一環として行われた身心工作坊(アートセラピー・心理回復ワークショップ) で、被害者のひとりが描いた「自身の身体」。
このワークは、模造紙の上に自分の体の輪郭をなぞるように描き、そこに今感じている痛み、かつて受けた傷、あるいは「本来の自分」を色や絵で表現するアートセラピー(芸術療法)です。
ある女性は、傷つけられた子宮や腹部、胸などの痛みを象徴するような鮮烈な赤や赤黒い色を塗り、またある女性は、自身の体に美しい花々や美しい伝統衣装を描き込み、「尊厳の回復」を表現しました。これらは、言葉にできない過酷な経験を、身体の絵(ボディー・マップ)を通して可視化したものとして知られています。
婦女救援基金会の調査によれば、慰安婦として働かされた女性の多くは、男たちによる蹂躪だけでなく、戦時中の飢えや物資の不足、劣悪な環境、命からがらの引き上げ等も乗り越えてきました。やっと帰国できたと思ったら家族が亡くなっていたり、生死も所在もわからないといった新たな苦しみに直面された方もいます。
海外の慰安所に送られることは逃れたものの、故郷での性的奉仕を強要されたことにより周囲の人々に知られてしまい、ひどく辛い思いをされた方もいます。
| 過酷な時代、心身を傷つけられた若い女性たちがどう生きていけばいいのだろう? |
彼女たちのほとんどが慰安婦の経験により健康を害し、戦後も長いこと苦しんできました。慰安所での粗末な食事から胃腸を患ったり、日本兵に殴られて難聴になったり、脊椎の痛みに苦しんでいる人もいたといいます。また、多くの人が卵巣や子宮に異常が見られ、約6割の人が不妊症になってしまったそうです。精神的な症状に苦しんだ方もおられたと思います。当時はPTSDという概念すらなかった時代です(PTSDはベトナム戦争の帰還兵の症状がきっかけだったそうです)。
本当に、慰安婦をさせられた彼女たちの心に与えた傷の大きさは計り知れないものだったと思います。
支援に繋がったばかりの頃、彼女たちには性的犯罪の被害者と同じように「自責」の心的態度が見られたそうです。
また、多くの元慰安婦たちが子供を産めなくなってしまったり、男性への強い嫌悪感や恐怖感から一生独身でいることを決意したり、離婚をしたり、結婚や同棲の堅いを継続していてもその家庭生活は幸せだとは言い難いケースも少なくないとか。
数十年に渡ってこれほどのつらさを胸に抱え続けているのですから、誰かに理解してほしいと願う気持ちはあったと思いますが、その一方で他人に自分の過去を知られたくない、知られてはいけないと常に警戒して暮らし続けていかなければならず、どうやって気持ちを保っていたのでしょうか。
加えて言えば、戦後は大混乱で誰もがゆとりがなく、物資もありません。国民党が入ってきて、戒厳令時代が始まればもっともっと社会が厳しくなって、個人的なことなどとても言えなかったのではないでしょうか。
そうした時代の流れはさておき、被害者である彼女たちの心にこれほどの負担をかけ続けているものの正体って何だろう?社会の目?社会通念?暗黙のルール?周囲の無理解?自己概念?考えを巡らせれば巡らせるほどわからなくなりますが、かなり多面的。
原住民の女性の場合、高い貞操意識をもつ独自の「掟(ガヤ)」があり、たとえ騙されて慰安婦にさせられたとしても、強姦されたとしても、性暴力の被害に遭ったという事実を家族や地域社会に打ち明けることが許されなかったそうです。
もちろんこうした被害の話は、打ち明けられたところで、周囲の人もどうしてよいかわかりません。非常に難しいデリケートな話ですし、つらい話を聞く方もつらい、どのような言葉をかけてよいのか、本当に難しいと思います。何が彼女にためになるのか、どうすれば彼女の心が楽になるのか、わかる人、いるでしょうか?
そうした相手方の戸惑いは何となく伝わるから、彼女たちはひたすら口をつむぐしかなくなってしまう。やっぱり理解してもらえるはずがないと心を閉ざしてしまう。
婦女救援基金会による調査でこのような体験談があったといいます。
「台湾に戻ってからは夜眠れず、よく居間でタバコを何本も吸い続けていると、母に『馬鹿な子だよ。そんなに深く考えるものじゃない』と言われて、涙がぽろぽろこぼれました。母は『泣いていても仕方がない。過去のことはみな過ぎ去ったのだから』と言ってくれましたが、それでも涙は止まりません。悲しかったのは、きれいだった自分の肉体が人に踏みにじられ、まるで道端の雑草のように価値のないものになってしまったことでした。全ては終わったと思いました。」
けれども、最初は嘆くことが精一杯だった彼女たちも支援を受けていくうちに、同じ経験をした人たちと出会い、さまざまなプロセスを経て「今はもう、あのような目に遭ったのは自分のせいだとは思っていない。あの出来事を恥じるべきなのは自分たちではない。」ということに気が付き、理解をしていったのだといいます。
こう書くと、右肩上がりで回復した美談にもなりそうですが、その道程も相当過酷なものであったはず。それでもまだ、彼女たちの心が癒されたとか、肩の荷が降りたわけではありませんでした。次の行動に移る必要がありました。
彼女たちの次の闘いについてはまた別の記事で書きたいと思います。
正直なところ、私も日本人なので非常につらい話です。同時に同じ女性として腹立たしく、悲しく、耐えがたい話です。受け止めるのが大変というか、身構えるというか、防衛の心理も働いてしまうのを感じています。
慰安婦問題はまだまだ研究が続けられています。素人ながら、知れば知るほど、単なる歴史責任の追求の話にとどまらないような気もしてきます。
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【編集後記】
やっぱり孤独にしてはいけないと思うし、専門家や同じ痛みを知る者などさまざまな立場の人の力を集結して時間をかけた支援が必要だと感じますよね。
支援も大事なのですが、社会やコミュニティを構成しているひとりひとり、つまりは自分の中にあるものも点検する必要があると強く感じます。
謂れのない罪や偏見によって傷つけられた人を見るまなざしはどうだっただろう?いわゆる「後ろ指」というやつを自分は指していないと言えるだろうか?直接指さないまでも、そうした発言、本人がいないところでの会話、振り返ってみるというか。
しかし、実際のところ、腫れ物に触るような態度も失礼だし、支えてあげようというのも非常に危険でおこがましくもありますよね。
適度な距離感と温度感はどのくらいなのかなんてそうそうわかるものではありませんが、せめて温かいとか柔らかいもの、必要な情報が伝わればいいなと思うのですが。

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