台湾南部|1875年に造られた城門:恒春古城南門(屏東県恒春鎮)
高雄~墾丁間の行き来するバスの車窓から見えた古い城門、「恒春古城」の南門です。かつて台湾にはいくつも城門・城壁があり、恒春古城は清代の1875年、日本など外国からの侵攻や内乱から守るために築かれました。
冬場は強い風が吹くエリアでもあるそうなので、防風・防砂の役割も果たしていたかもしれません。中は、2,287mの壁で囲まれた街、現在も門の向こうに灯が見えますよね。
日本統治時代には、南湾港と恒春を結ぶ線路が敷設され、この南門を抜けて物資を運んでいたといいます。現在もそれほど大きな町ではなさそうですが、バスの乗り換え所があるなど、意外に活発な街なのだそうです。
台湾には城壁・城門がたくさんあったそうですが、ほとんどが撤去・解体され、台北、台南、高雄、恒春にわずかに残っているくらい。これだけ城壁と城門がきちんとした形で残っている場所は珍しく、4つの門の中でも南門は一番堅牢に造られているとか。
恒春について少し書いておくと、台湾最南端エリアで、墾丁国家公園の入口みたいな町。熱帯気候に属しており、一年中温暖で18℃〜32℃の範囲で推移し、冬場でも平均気温が20℃下回ることがほとんどないそうです。かつてこの地は瑯嶠(ランジァオ)と呼ばれていましたが、当時の官僚・沈葆楨が気候温暖なこの地を「恒春」と名付けたそうです。
牡丹社事件
清が城を作ったのは、1871〜1874年にかけて起こった「牡丹社事件(原住民が日本の宮古島からの漂流民を殺害したことをきっかけに、日本軍が恒春地方に出兵)」の後。「牡丹社」とは、事件に関わったパイワン民族の集落の名称です。
琉球王国時代の1871年、宮古島民らが乗った船が首里王府に年貢を納めた帰りに台風で遭難し台湾に漂着した。 その際に宮古島民や沖縄本島民ら「琉球人」の54人が殺害される事件が発生。生存者は漢人に助けられたそうですが、それを口実に日本軍が台湾出兵を行いました。政府はいったん派兵を中止したものの、西郷従道が独断での出兵を強行、長崎に待機していた征討軍約3,600名を出動させました。
台湾出兵についてはネットで検索したらそれなりに出てくるのですが、パイワン族は漂着した66人を救助し、自分たちの集落に迎え入れ、過ごせるようにしてくれたにもかからず、何故彼らは逃げ出したのか、追ってきた村人たちは何故54人も殺害するに至ったのか。
読んでいて何かすっきりしないというか、ただ何となく「原住民が襲った、怖い」みたいな印象になってしまうのですが、状況は詳しく書かれていません。なので、この件についてどう書いていいのかわからないので、また少し理解が追いついたら追記したいと思います。
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【編集後記】
そういう歴史がある場所ではありますが、日本にはない城門・城壁のある町を見るのもよいと思います。
日本は町全体を囲むような城壁は(ゼロではないかもしれないが)なく、お城があって、お殿様が高いところにいて、土塁、石垣、土屏で守ってますよね。城壁があるのがよいのかどうかはさておき、町や人の守り方、違いますよね。平民目線ですみません。
【追記:2015年12月】
下記のサイトによれば、台湾の歴史の教科書でも台湾出兵は出てくるそうなのですが、教科書に琉球漂流民殺害の理由や詳しい説明はなく、「牡丹社の原住民は残酷」という単純なイメージが台湾社会に広まり、そのせいでこのエリアの排湾族の人々は長いこと蔑視され、辛い経験をしてきたそうです。排湾目線というか、集落で語られてきた歴史は全く異なるのに。その「異なる」ところを排湾族以外の人がどれだけ知っているのだろう?
2014年、「石門古戰場與牡丹社事件紀念公園」ができたそう。
2014年、「石門古戰場與牡丹社事件紀念公園」ができたそう。
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読んでてすっきりしない理由にひとつはここだったかもなあ。先に言ったもの勝ち、声を大きくしたもの勝ちみたいな世の中で、勇気をもって小さくても声を上げる人たちがいれば、その声を聞いて受け止める人たち、広めてくれる人たちが必ずいるはず。どうか広まりますように。
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