映画|湯徳章ー私は誰なのか?(2024年/台湾)
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台湾のとても重要な歴史のひとつ「民主化」。そこには有名無名を問わずたくさんの戦士と犠牲者がいたのに、あまり語られてきませんでした。この映画は、人権派弁護士として台南市民を命がけで守った湯徳章(とうとくしょう/トゥン テッチョン)の足跡を追っています。
台湾ではよい映画やドラマがたくさん作られていても、日本人にとっては台湾史を知らないとわかりにくいものが多いかもしれません。この映画もそのひとつ。つらい内容なので読むのに抵抗がある方は、またのお越しをお待ちしております。
m(_ _)m
まずは映画の紹介から。
1947年3月13日、今では整備されたロータリーの中心にある公園で一人の男が処刑された。彼が生まれたのは1907年、台湾が日本の植民地であった頃。先住者と日本からの移住者との間に発生する摩擦のなかで、「台湾人」というアイデンティティが形成された時代でもあった。日本の敗戦後、ほどなくして台湾は中華民国政府の統治下に置かれるが、国民党政権の抑圧や腐敗に、台湾の民衆は不満と怒りを募らせていく。その衝突をきっかけに「二二八事件」が起こり、以降、長きにわたる言論弾圧と戒厳令が敷かれる。事件にまつわる人や物事を語ることは禁じられ、台湾の記憶の奥に静かに封じられていった。
台南には、湯徳章の名を冠した旧居や道路が残されているが、多くの台湾人、さらには台南の地元住民でさえ、彼の人物像を知る者は少ない。 映画は彼の足跡をたどる旅に観客を導いていく。息子(養子)や姪、果物屋の店主、ジャーナリスト、歴史家、作家、当時の新聞記事…。彼と関わりのあった人々の証言や記録を紐解きながら湯徳章の人物像、そして彼が歩んだ人生の輪郭を少しずつ浮かび上がらせていく。
台湾の未来を切り開こうとしながらも、その志を果たす前に命を奪われた彼の想いとは——。これは、湯徳章のアイデンティティを探求する物語だけではない、台湾の記憶をたどる物語。
(映画『湯徳章ー私は誰なのか』公式HPより:https://thngtek-chiong.com/)
湯徳章(とう とくしょう)
台湾語読みだとトゥン・テッチョン、中国語読みだとタン・ダージャン。
日本名:坂井徳章。
1907(明治40)年1月16日 - 1947(民国36)年3月13日
1907年、日本人警察官の坂井徳蔵と台湾人の湯玉の子として、台湾で生まれる。当時はまだ日本人と台湾人の結婚は認められておらず、徳章は母の姓で育つ。
1915年、湯徳章が8歳の時、漢人系住民による最大かつ最後の抗日武装闘争「タパニー事件(西来庵事件)」が勃発、父・徳蔵が勤務する警察派出所が現地の暴徒に襲撃され、徳蔵は命を落としてしまう。
母子家庭となり経済的に厳しかったが、湯徳章は勉学に励み、1921年台南師範学校(現:台南大学)に入学する。卒業して教師になれば生活は安定するはずだった。湯徳章は母がつぎはぎして作ってくれた制服を着ていたが、日本人の教師に「ちゃんとした制服を着てこい」と叱責されてしまう。母親の苦労を見てきた湯徳章にとっては、せっかく母親が作ってくれた服をなじられたことが許せず、制服をその場で先生に投げつけ、ついには退学してしまう。
その後は肉体労働者として働きながら学問と武術を学び、1927年警察学校の試験に合格、台南警察署(現:台南市美術館の建物)に勤務する。当時の警察学校は台湾人にとっては狭き門であったが、湯徳章は台湾人で初めて警部補まで昇進する。だが実際には、同期の日本人とは出世スピードに明らかな差があり、ここでも「日本人ではない」ことによる差別待遇を受けていた。
1939年、湯徳章が管轄する地域で台湾人の青年がひき逃げされる交通事故が起きた。事故は法律に則って警察が処理を行うのだが、その車を運転していたのが鹿沼正雄という日本人医師、父親は台南の政治家であったため、誰もこの事故をまともに取り扱えずにいた。
湯徳章は「人を轢き殺しておいて何も処罰が下らないのはおかしい、被害者が台湾人だからといってこんな扱いは間違っている」と、ひとり異議を唱えた。けれども最終的に加害者にはわずかな罰金が科されただけであった。この事件を機に、今のままでは台湾人のために働くことはできないと警察官を辞職、法律の勉強をするため日本への内地留学をする。
1940年、日本人である父方の親族を頼りに東京に下宿、留学期間は日本人の苗字を使用し、中央大学で法律を学び、1943年、当時最難関の国家試験であった高等文官の司法科と行政科(現在の司法試験と国家公務員総合職試験に相当)に合格。日本での経済的安定が保証されていたにもかかわらず、台湾人の力になるという志を貫くため、台南に戻り、弁護士事務所を開業、同時に苗字を台湾姓「湯」に戻した。
安い費用で台湾人の弁護を引き受け、徹底して弱者の味方であり続けた。また、訴訟など大事になる前に、当事者の間に入って話を纏め、治めるのが非常にうまかったという。この時期が湯徳章にとっては念願叶った幸せな時期だったのかもしれない。
ところが4年後の1947年、台湾で「二二八事件」が勃発。
1947年2月27日、台北の台湾人達があることを機に、台湾政府の腐敗に対する溜まりかねた怒りを爆発させた。翌日2月28日、台北の抗議隊がラジオ局から台湾全土に呼びかけを行い、抗議の波は台南にも届いた。台南に住む台湾人たちも、日頃から国民党(中華民国政権)に怒りを募らせていたため、工学院(現:成功大学)の学生らが中心となって抗議団体を結成した。湯徳章は、学生たちが暴徒として酷い扱いを受けないよう大暴動に発展する前に彼らを説得して事を治めたが、軍は湯徳章を「首謀者である日本人」として逮捕し、すぐさま臨時軍事法廷も「日本人」として裁いた。
湯徳章は、二二八事件処理委員会台南支部の治安班の班長として市内の治安維持を担う仕事もしていたが、事件に関わった人々を守るために、関係書類やリストなど、軍が欲しがりそうなものはすべて事前に焼却していた。情報を得ることができないと焦った軍は、ひどい拷問や暴行を加えたものの、湯徳章はひとりの名前も漏らさなかったという。
翌日、傷だらけの湯徳章を軍用トラックの荷台に縛り上げたまま乗せ、市中を引きずり回して晒し者にした。湯徳章の体には日本名「坂井徳章」が書かれた木の札が掲げられていた。軍人がでっち上げの罪名を複数、大声で読み上げた。たとえば、暴動を回避させたのに「首謀者」であるといったように。
その翌日3月13日の午前、湯徳章は台南市の中心地であるロータリーで銃殺刑に処され、わずか40歳の生涯を閉じた。
暴行を受けボロボロであちこち骨折しているような状態だったにも関わらず、湯徳章は抵抗を続けた。彼の最後のことばは「台湾人、万歳」だったという。軍が湯徳章の家族に対して遺体の引き取りを禁じたため、湯徳章の遺体は処刑が行われたその場所に3日間野ざらしにされた。国民党はこのような見せしめを各所で行っていたという。
湯徳章の逮捕と処刑を決定・実行したのは防衛司令部という部署だが、実はこのような権限は持っていなかったという。湯徳章の死後、この件はあらためて司法に送られた。裁判官が下した判決は「無罪」であった。
もう、どういうことなの?と思いますが、それが国民党時代は当たり前のように行われていたそうです。当時のことを知る人は少ないものの、映画の中では語られています。文字にしきれないものがあるので、機会があったら観てほしいなあと思います。関連する書籍も出ています。
日本にいると「民主主義」について考えることもないけれど、そもそもどういうもので、それを自分たちで勝ち取るとはどういうことなのか。台湾から学べることたくさんあると思います。
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【編集後記】
日本人として、台湾の日本統治時代のことは気にしても、戦争が終わって日本が引き上げた後の台湾を気に掛ける人はどれだけいるだろう?
初めて台湾に行ったのはもう20年以上も前。日本統治下で日本語や習慣を身に着けた世代の人たちが当時のことを色々話してくれたけれど、”その後”についてはあまり語りたがらなかった。「国民党時代は本当に酷かった。自由がなかった。台湾語も日本語も禁止された。破壊、詐欺、略奪・・」と言葉を詰まらせた。
少しずつ、当時何があったのか、彼らがどんな思いをしていたのかが明らかになってきたものの、台湾の人たちでさえまだまだ知らないことがあるという。いったいどれだけ厳しい時代であったのか。
統治した側といっても敗戦した日本に、引き上げて去った土地のことを知るゆとりはなかったと思うが、そろそろ知ってもよい頃ではないか、そんな気がしている。
何より日本人にはわかりづらいことではあるが、アイデンティティの問題。日本統治を経て、国民党が入ってきて、激動の時代をくぐり抜け、民主化の時代を迎えたものの、依然、中国との緊張関係は続いている。世代間で使う言語も異なる。それでは「日本人って?」というと、日本にいる日本人はたまたま問うことも問われることもなく来られただけかもしれない。いや、終戦を経て日本も大きく変わったのだけれど、問わずにきただけかもしれない。実際これを問われるって結構きつい気がするのだけど・・・。



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