某国同士が戦争になってから、日本の過去の戦争のことを知りたい人が増えたといいます。何故戦争は起きるのか、起きるとどうなるのか、止めることはできなかったのか、そしてその中で人々が何を思い、どう生きたのか。今は、それらを知ることがだんだん難しくなってきています。
今年は戦後80年、おそらくテレビでも映画でも、博物館や資料館もさまざまな企画をすると思うので、知る機会のひとつになればと思っています。
当ブログでも、そうした記事が多くなると思いますが、つらい画像や言葉を含むものが多々あるため、つらくなりそうな方はご無理をなさらず、またのご訪問をお待ちしております。
今回来たのは、大阪にある「ピースおおさか 大阪国際平和センター」さん。1981(昭和56年)、社会福祉会館で小さな資料室からスタートされたそうです。現在は大阪城公園の入口付近にありますので、大阪に来られた際には足を運んでいただきたい場所のひとつです。
常設展と企画展がある中で、企画展「大阪空襲 ~80年前の記憶~」をご紹介。
大阪への空襲は1944(昭和19)年から始まり、大小合わせると50回以上。その中でもB-29が100機以上もやってきた「大空襲」は8回もありました。正確にいうとこの8回は、1945年3月から8月の終戦前日までの約半年間に行われています。いったいどれだけ執拗な攻撃だったのかと思います。
大阪第一次空襲と言われている、1945(昭和20)年3月13日の深夜から未明にかけて行われた空襲では、米軍の爆撃機「B-29」が274機が大阪の空を埋め尽くすように飛来、1733トンもの焼夷弾を投下しました。
このときの大空襲だけでも、被災家屋は13万6千戸を数え、約4000人もの命を奪いました。亡くなった方だけでもそんなにたくさんいるのですから、負傷した人を入れたら一体どれだけになるのか。
このときの大空襲だけでも、被災家屋は13万6千戸を数え、約4000人もの命を奪いました。亡くなった方だけでもそんなにたくさんいるのですから、負傷した人を入れたら一体どれだけになるのか。
| つらい記憶を掘り起こして描いてくださった方々の労力を思うと・・ |
おそらくこれを聞いて、東京で生まれ育った人や、東京の空襲の話を聞いた方には、「あの時と同じだ」とピンとくることがあるかもしれません。
3月13日の大阪大空襲の3日前の3月10日の未明、東京下町を焼き尽くした「東京大空襲」と同じやり方ではないかと。日本への空襲を指揮をしていた爆撃集団司令官が変わったことにより、その空襲はそれまでと異なる攻撃の仕方や規模であったこと、同じような時刻に攻撃されていることなど。
あんなことを東京だけでなく、他の都市にも一般人に向けて次々と行ったことは知っていても、こうして経験された方々の絵や言葉、当時の数少ない写真や資料を見ると、何か言葉にならないものがあります。
東京にだって起こって欲しくなかったことだけれど、首都である東京を爆撃しただけでも十分な痛手じゃないか、日本中にこんなことしなくてもと思うけれど、それが戦争なんだと言われると・・・・。
2カ月半後の6月1日の大阪大空襲では、B-29が458機が襲来。さらに規模が大きくなっています。
この頃、体力もある働き盛りの男性たちの多くは兵隊にとられて、町には戦力を持たない老人、女性、子供、病人、障がい者がたくさんいたわけです。軍需工場はあったとしても、物資も人でもなく困窮していたし、もう大したものは造れなくなっていました。
彼らを怖れることはないのにどうしてここまで攻撃するのか、平和なときは絶対にわからないことかもしれませんが、戦争が起きるとそうなってしまう、だから起こしてはいけないのだということが強く伝わってきます。
彼らを怖れることはないのにどうしてここまで攻撃するのか、平和なときは絶対にわからないことかもしれませんが、戦争が起きるとそうなってしまう、だから起こしてはいけないのだということが強く伝わってきます。
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【編集後記】
体験画の力ってとにかくすごい、これまでも観たことはありますが、今回も強く感じました。おそらく普段は絵筆を持たないであろう人たちが、しかも自身のつらい記憶をここまで鮮やかに描ける力は、いったいどこから来るのだろう?「資料としての価値」については専門家にゆだねるとして、一般人の私達にとっては不思議でもあり、大変ありがたいものだと思っています。
何が不思議かというと、絵を観ていると、その後どうなったのか、助かったかどうかもわからない人や、確実に亡くなることがわかっている人、既に亡くなっている人々を描いているにも関わらず、「怖い絵」には観えなくなってきます。
怖さがなくなるわけではないけれども、こうした人々に対する「いつくしみ」のような気持ちを持って描いたのではないかという気がしてくるからです。きっと描いているときは、そうした人々へ思いでいっぱいで、むしろ語りかけていたかもしれないとさえ思います。
簡単にカメラで撮影して残せる時代であっても、やはり絵であれ文章であれ、肉筆でしか残せないものはあるので、そうしたものも大事にしていきたいな。ブログに写真と文字で残している私が言うのも何だけれど・・・。
簡単にカメラで撮影して残せる時代であっても、やはり絵であれ文章であれ、肉筆でしか残せないものはあるので、そうしたものも大事にしていきたいな。ブログに写真と文字で残している私が言うのも何だけれど・・・。
ピースおおさか 大阪国際平和センター