台湾丨日本語が通じるホテル:國王大飯店(台北市中山區)(3)+窓から見える林森公園の歴史
ホテルの部屋からの眺めです。目の前は「林森公園(リンセン ゴンユェン)」。昔ここに来たときはこんなに木がモリモリではなかったので、本当に久しぶりに来た感じがします。樹木が育つには時間がかかるから、やたらに伐採するのはやめた方がいいと本当に思いますよね。
ここは、清代には兵舎が設置され、日本統治時代には隣にある康楽公園(こうらくこうえん/カンローゴンユェン)一帯は、火葬場と「三板橋(さんばんきょう/サンバンチャオ)共同墓地」と呼ばれる日本人墓地でした。敷地内には鳥居があることでも知られています。
ホテルの部屋の窓の張り紙も古そう。
窓が二重窓になっていて、外側の窓は換気ができる程度にしか開くことができず、「外窓は無理に開けないで」の注意書き。なので、内側の窓だけ開けて写真を撮っていたのですが、5月なのに窓1枚だけだとすごく暑い・・。落下防止もそうだけど、暑さ防止のためにも外窓は開けない方がよさそう。
温暖化が進むなら、日本も二重窓にした方がよくないかな???
| 面積は、林森公園が29,331㎡、康楽公園が13,385㎡。 |
この公園の一帯は、火葬場+日本人共同墓地だったと書きましたが、1990年代の再開発まで火葬場や墓地だった場所に家屋が建っていたことから、怪奇現象の噂が囁かれた時代もあったとか。また、公園内(康楽公園側)に中国の英雄「岳飛」の像があるのは「霊を鎮めるための風水的な意味がある」といった都市伝説も。現在ではもうそういうお話はなさそうで、夜、普通に散歩している人とかいました(笑)。
何というか、気にしないというのが一番強い?
日本統治時代のこと
1896年に乃木希典大将の御母堂・寿子が埋葬されたのち、1900年に正式に共同墓地として認定され「三橋町共同墓地」と命名されました。その後、第7代台湾総督・明石元二郎や明石の秘書官をつとめた鎌田正威も埋葬されたそうです。
1918年に第7代台湾総督に就任した明石元二郎は、翌1919年に公務で帰国する際に船上で病に倒れ、福岡で逝去。「自分が死んだら台湾に葬ってほしい」との遺言があったため、ここまでご遺体を運び、埋葬しました。台湾の人々からの寄付によって非常に立派なお墓を建て、かなり手厚く葬られたといいます。その翌1920年、明石総督の後継の田健治郎(第8代総督)により大鳥居が建てられました。
1990年代の再開発時に発見されたときの鳥居、そして現在この公園にある鳥居はどちらも大小2つですが、ひとつはこのときのもの。もうひとつの小鳥居は「乃木総督の御母堂のためのもの」という説と「昭和10年に亡くなった鎌田秘書官のためのもの」という説がありましたが、後者ということで話は落ち着いているようです。
そういえば、かつて台湾に各地にあった日本統治時代の神社の鳥居は、戦後、国民党によって”敵性遺産”として取り壊されましたが、「林森公園に残っていたよ」と話す方もいらっしゃいます。日本統治時代に建てたものではあるけど、神社の鳥居ではないのですよね。そう思うと、それ、そんなに正しくない・・。
1942年には「台北市役所葬儀堂」が建設され、主に台湾に住む日本人向けの葬儀や火葬を行っていました。
戦後の国民党時代
1949年から1960年代にかけ、国共内戦で大陸を失った国民党の軍人とその家族、およそ60万人が台湾へ移住してきました。急激な人口増加によって家屋が密集した地区が誕生しました。既存の集落と区別し、台湾において外省人が居住するその地区を「眷村(けんそん/ジュエンツン)」と呼ぶようになりました。
この公園の場合、日本人墓地の上に無許可・無秩序に家屋を建設しました。墓石は建材として流用され(エェ?!)、大鳥居は支柱や物干し竿代わりに使われていた(エェ?!)といいます。もちろん、まともなインフラなんてありません。そんな中、1970年代にはここだけで3千500世帯以上が住んでいたそうです。
1990年代でもこんな感じだったようです。(↓↓)。
以下、台湾のニュースサイト「好房網」さまより、画像を拝借しております。記事は2022年1月26日のものです。
https://news.housefun.com.tw/jasonz/article/621239324024
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| 一度入り込んだら、迷って出てこられなさそう。 |
圖片來源:張哲生著《回到華燈初上時》尖端出版
1992年7月22日に撮影されたもの。画像出典:張振生の最新出版物『中国灯の始まりへ』
また、日本統治時代の「台北市役所葬儀堂」の建物を利用し、「極楽殯儀館」に改称。民間火葬場+処刑された政治犯とされた人々のご遺体の一時安置所として、ご遺族に引き渡すための主要な施設となりました。1970年代に閉鎖・解体されたため、今はもうその面影はどこにもありません。
映画「大濛(邦題:霧のごとく)」をご覧になった方はピンときたと思いますが、主人公の女の子・阿月(アグエー)が探す極楽殯儀館は、ここ林森公園にありました。
| とてもよい映画でした。https://www.afoggytale.com/ |
戒厳令の解除後
1990年代後半に当時の台北市長・陳水扁(後の総統)の主導で、再開発と公園化が行われました。工事が進む中、これら2つの鳥居はいったん別の場所に”仮置き”されることになりました。
公園が完成したら元の場所の戻す話だったのに、なかなか戻る様子がなかったことから、公園の地元である康楽里の王金富・里長(=町内会長みたいなもの)と、正義里の王明明・里長が、台北市議会議員・陳玉梅さんに陳情。陳議員さんのご尽力により、戻されることになったそうです。
で、日本人のお墓はどうなったのか?
工事中、明石総督の墓所からは棺が見つかり、台北県三芝郷の福音山基督教墓地に改めて埋葬されました。他の日本人のお骨は、ほとんどが1927年に建てられた臨済宗の妙心寺派のお寺、台中市の宝覚禅寺へと葬られているそうです。
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【編集後記】
命辛々逃げてきた人たちにとっては、それどころではなかったのだろうが、墓石を建材にして家屋や道路を造ったというのは驚きだった(蒋介石はあれだけの財宝を中国から運び出しているのにねぇ・・)。ここだけ「終戦直後の暮らし」みたいで胸が痛むが、それでもやはり、もし自分の家のお墓がそんな風にされたら?まだお骨を掘り出してもいない上でドタバタ生活されたら?と思うと、眉間に大きな皺が寄る。「生きてることは素晴らしい、人生は美しい」なんて一体誰が言ったのか?
この「眷村」は、違法建築を除いた分だけでも879カ所もあり、この公園のように違法建築のスラム街を入れると相当な数に上る。違法であれ合法であれ、これだけ多くの世帯が片寄せ合って何十年も暮らしたとなれば、やはりそこには独自の文化が生まれる。現在ではもうほとんど姿を消しているが、台湾特有の文化としてリノベーション政策が推進され、観光地化されているところもある。1948年に建設された四四南村は、そのひとつ。今回は時間がなく行くことができなかったが、次回の渡台で訪れたい。

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