LA|米国内最大規模の日本人街:リトル・トーキョー(1)

LAにあるリトル・トーキョーは、アメリカ国内で最大規模。日本では既にレトロ扱いになっている「櫓」や「瓦」ありました。東京を意識して作ったわけではないだろうけど、機能や拠り所としての「東京」だったのかなと。



以前に比べて、日本語が聞こえてくることはグッと減っていました。

"トーキョー" とか "ジャパン"の色合いはあまりなく、働いているのは韓国系の方が多い印象です。かつては、日系人、戦争花嫁、現地就職組、国際結婚組、転勤族、呼寄せ組、留学生、出張者、旅行者など、さまざまな立場の人たちで賑わっていました。



周辺の治安がよくないこともあり、この地に不慣れな日本人とわかると、危なっかしかったのでしょうね、親心みたいな感じで、気さくに日本語で声をかけてくれる温かさもありました。



日本の食料品や日用品や書籍も手に入り(日本で買うより高いけど)、日本語も通じるし、情報も入る、お祭りもする、日本人同士の気楽さから話が弾むこともあれば(揉めてることもあったけど)、言語や生活様式、文化を継承しようとする姿がよく見られました。もちろん今でもないわけではありませんが、本屋さんに行っても日本語表記の本がぐっと減りました。

無理もないですよね。
日系人といっても今の若い世代は、5世とか6世とか。もちろん、違う国や文化のルーツを同時に持つ人もたくさんいます。なので、日本語や習慣はもちろん、「日本人」としてのアイデンティティは当然薄れているし、お正月に親族で集まっても、おせちやお雑煮ではなく、ターキーを食べたなんて話も耳にします。

日系人の中でも、「日本を好きなのはいいけど、あまりに好き過ぎるとダサくうつる」こともあると聞きました。



一方、日本にいる日本人はどうか。日系人の歴史や海を渡った日本文化の継承に興味を持っている人は非常に少ないと思います。このあたりは何かの折に記事にしたいと思います。


1907 1st St. and San Pedro St.
Bungoro Mori in white shirt and suspenders is standing in front of his new store.
The Asia Company where Toriumi Plaza now stands,
on the block of the former LAPD Parker Center Headquarters
.




リトル・トーキョーを、戦後にできた「日本人観光客向けのショッピング・モール」とか「忍者村」みたいに思っている人がいたのには驚いたけれど、その歴史は古く、明治時代まで遡ります。
1884年の日本からの移民が始まり、その翌年に日本人漁師が日本食レストランを開店したのを機に、いくつか店舗が集まるようになり、学校ができ、今のリトルトーキョーの基礎が造られたそう。「羅府新報」や、フリーペーパーの「Light House」もここで産声を上げています。

「リトル・トーキョー」とか「小東京」という名前が定着したのは、1905年。
1906年のサンフランシスコ大地震を機にその周辺に居た数千人の日系人がリトル・トーキョーに移住。街としては発展はしたものの、急激な日本人の増加に伴って、LAは排日ムードが高まっていきました。情報の少ない時代に、馴染みのない明らかに違う人種・民族が急増すれば不安になるだろうとは思います。
皮肉なことに「真面目に働けば、必ずアメリカ社会から認めてもらえる」と信じる日本人のメンタリティや、元来の勤勉さや働きぶりが、かえってアメリカ人達の職を奪うことに繋がって反感を買い、脅威の対象になってしまいました。
当時の日本人にしてみれば、「俺たちは真面目に働いているのに、何で?」だったと思います。


上記の写真の頃(1907年)には日本人の人口は3万人を超えていたそうです。
暮らしは相当厳しかったと思いますが、自分の肩に背負える荷物くらいしか持たずに、船でアメリカに渡って来てから20年余りでここまで発展したのだから、すごいパワーだと思います。(残念ながら、現代の日本人にはそんなパワーはない・笑)。

1920年頃の東京の人口は390万人位(1923年には関東大震災で人口は減少)。船で海を渡るような時代に、ある地区だけで3万人っていうとすごい規模です。

続きます。



▼アメリカの日系人社会では不評だったという「山河燃ゆ」。アメリカでは抗議が殺到して放送中止になったとか。

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二つの祖国(一~四) 合本版




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