今回巡った遺跡群の中で観光客が一番多かった「ワット・ヤイチャイモンコン(Wat Yai Chai Mongkon)」。1357年にアユタヤ王朝初代ウートン王がセイロン(現スリランカ)から帰国した修行僧たちの瞑想のために建てた寺院。
映画「ビルマの竪琴(1986年版)」のロケが行われた場所でもあるそうです。
今回巡った遺跡群の中で観光客が一番多かった「ワット・ヤイチャイモンコン(Wat Yai Chai Mongkon)」。1357年にアユタヤ王朝初代ウートン王がセイロン(現スリランカ)から帰国した修行僧たちの瞑想のために建てた寺院。
映画「ビルマの竪琴(1986年版)」のロケが行われた場所でもあるそうです。
今回の記事もまた、崩壊したままの仏像の画像が続きます。菩提樹の木の根の間に埋め込まれた仏像の頭で有名な「ワット・マハタート(Wat Mahathat)」。
13世紀に建てられた重要な寺院のひとつ。かつては高さ50mほどの仏塔が建ち、その頂上には黄金が輝く大寺院でしたが、こちらもビルマ軍の侵略により崩落。塔の跡からは数々の黄金仏や宝飾品などが発見されたそう。
アユタヤ遺跡群は遠目で見ている分にはいいけど、近くで見ると、とても痛々しいです。建物だけでなく仏像も崩壊したままのお姿で鎮座しています。つらくなりそうな方は、ここでページを閉じるか、移動されることをお薦めします。
次に訪れたのは「ワット・プラシーサンペット(Wat Pra Srisanpet)」。ボロムトライロッカナート王時代の1491年に建立され、以降はここで宮中儀式が執り行われいたそうです。
アユタヤの遺跡群の中から、まずは「ワット・ローカヤスターラーム(Wat Lokayasutharam)」から見学。バンコクからアユタヤへの移動ですが、自力で行くのは大変なので、現地ツアーを申し込みました。
そもそも日本にいると坐像が多くて涅槃像を見る機会は滅多にありませんが、思いっきり下がらないとカメラのフレームに収まらないほど大きい像を見ることもありませんよね。
今回のタイ旅行では、ホテルは2か所予約。そのひとつが バンコクの中心部にある 「ル・サイアム ホテル (旧スイス・ロッジ)」です。
お部屋によって色が違うそうで、私達が宿泊した部屋のお向かいは黄色い壁でした。「眺望」は全く期待できないので、日中、忙しく動き回って寝るだけのスケジュールの方にはよさそうです。
ドイツ人作家ハンス・ファラダがゲシュタポの文書記録をもとに執筆した小説「ベルリンに 一人死す(Alone in Berlin)」を映画化。
ドイツの一般市民もナチスに苦しめられていたと思うけれど、この作品では彼らが主人公となっています(以下、ネタバレがあります)。
こんなにモリモリと育った緑の中に素敵なカフェがありました。しかも、JRの駅から徒歩7~8分、さすが湘南という感じ。割と穴場的な感じもするこのカフェは、茅ヶ崎美術館内にある「カフェ・ルシュマン」さんです。すごく寛げる雰囲気です。
美術館に併設されているカフェは、「混んでいる」「高い」「閉店時間が早い」ことが多いのですが、こちらは平日のランチタイムを避けたらか、空いていました(ただし、企画展が人気のものだったりすると、平日でも混んでいるそうです。)
九段のシンボル的な建築のひとつ「九段会館(旧軍人会館)」、独特の雰囲気がありますが、昭和御大礼記念事業の一環として計画され、建設の際には昭和天皇からの御下賜金もあったそうです。ここだけ異空間感じです。
1936(昭和11)年に起きた「二・二六事件」の司令部が置かれた場所でもあり、その翌年には、清朝最後の皇帝の弟・愛新覚羅溥傑(ふけつ)と嵯峨浩(さがひろ)の婚礼が行われたりもしているので、おめでたい意味でも歴史的です。
1964(昭和39)年、東京オリンピック開催に合わせて東京の町は急ピッチで整備されていきました。新橋~有楽町間のガード下もそのひとつで、外国人向けの「インターナショナルアーケード」もオープン。外貨獲得のための商店街で、当時は円安だったので盛況だったそうです。
入ったことはないのですが、随分前(20年以上前)、ショーケースには兜や日本人形が飾られていた記憶があります。外国人向けのお土産屋さんのほか、色々なお店があったようです。
新橋の「Lad's de WINE」で朝ごはん。カフェというよりワイン・バル。3種類のモーニングメニューは515円から(2016年12月現在)。
オフィス街のモーニングメニューが食べられるお店は、だいたい朝7:00か7:30くらいから。始業時間が遅い場合は、会社の最寄駅のカフェでなくても行く時間はありますしね。
前回「全米日系人博物館(7)」の続きです。1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内でも志願兵の募集が始まりました。部隊名は「第442連隊(442nd Regimental Combat Team)」。
| 軍服は思ったより小さく、当時の日系二世も小柄だったことがうかがえる。 |
忠誠登録で「YES」と答えた日系人は87%もいたにも関わらず、当初、兵役を志願し入隊できたのは800人くらいだったそうです(その後は増えます)。
前回「全米日系人博物館(6)」からの続きです。収容所が開設された直後から、アメリカに忠誠心があると認められた日系人に対して、収容所を出て軍事制限地区から離れた地域に定住させる施策(「再定住」という強制的な同化)も行っていました。これにより、戦争による労働者不足を補うために一時的に収容所の外にある農園や工場で働くことができた人もいたそうです。
そしてもうひとつ、二世たちが収容所から出る方法がありました。それは「アメリカ陸軍への入隊」でした。
前回「全米日系人博物館(5)」からの続きです。1942年から1946年まで、アメリカ政府は、約7万人のアメリカ国民(二世)を含む、約12万人の「日本人の血を引くすべての民間人」を拘留するため、内陸地の砂漠や沼地や荒野に10箇所の強制収容所を建てました。集合センターから日系人が送られた環境はとても厳しいものでした。
有刺鉄線に囲まれ、監視塔には銃を持った兵士が立ち、その視線や銃口は収容されている日系人に向けられていました。すきま風が入り込むような粗末なバラックに、他の家族と詰め込まれるような相部屋、仕切りのない共同シャワー室や共同トイレ、食堂での粗末な食事・・・衛生状態も悪く、感染症が流行ることもあり、気候も厳しいため体調を崩し、命を落としてしまう人もいました。
前回「全米日系人博物館(4)」の続きです。1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃が始まりました。当時アメリカ本土で生活していた日系人は約12万7000人、そのほとんどが西海岸の3州(オレゴン州、ワシントン州、カリフォルニア州)に集中し、特にカリフォルニア州には9万3000人の日系人が住んでいたそうです。
| 当時のアメリカの軍当局が日系人の立ち退きを命じた掲示。 All Persons of Japanese Ancestry =日本人を祖先にもつすべての人々、とある。 |
1942年2月に当時のルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名したことにより、アメリカ国籍を持つ二世も含め、日本人の血を引く住民はすべて、移転所に出頭するよう告知がなされました。これにより、これだけの日系人がたった数カ月のうちに、アメリカ本土の内陸部(すごーく辺鄙なところ)に作られた10カ所の強制収容所に送られることになりました。