台湾の冬は日本より暖かいとはいえ、台北など北部は冬はそれなりに寒いし、時には寒波も襲来します。冷房はパワフルでも暖房設備は不十分。また、暑いところでは野菜も体を冷やすものが採れると言われ、知らず知らずのうちに体を冷やしているかもしれません。
そんな台湾で心強いのが「火鍋(フォーグォ)」。食材もスタイルも味も豊富で常にに進化してても、「養生(体にいい食事)」「食補(欠けているものを補う食事)」が基本だそうです。
台灣鐵路・集集(ジージー)線の「集集車站」こと「集集」駅。
台湾のローカル線の旅には外すことのできない集集線は、彰化縣「二水」駅と南投縣「車埕」駅の間の7つの駅、わずか29.7kmの区間を走る非電化の単線。しかも行き止り線。
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ここが駅のホーム。 |
集集線で、唯一残ってる日本統治時代の面影を残す駅舎「集集」駅は、1933(昭和8)年竣工のヒノキ造り。
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1999年9月21日01時47分(現地時間)、マグニチュード7.6。
震源地は台湾中部の南投縣集集(ジージー)鎮の九份二山。爆心地とも呼ばれているこの場所は、現在では「九份二山震災紀念公園」として開放されています。
日本で起こる地震は震源は海底であることが多く、陸地が震源地だったらその付近がどのような状態になるのか想像もつかないけれど、この光景を見たとき、本当にショックだった。わずかに足が震えていました。
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日本の関東圏だと箱根登山鉄道が有名ですが、世界三大登山鉄道のひとつと言われている「阿里山森林鐵路」、やはりパワーが違います!
始発「嘉義」駅~終着駅「沼平」駅(旧・阿里山駅)まで全長72.7kmを、約3時間30分かけて登りますが、その標高差は2274m、30m進むごとに高さ1m上昇するくらいの山道。
阿里山森林鐵路は、15の駅、49のトンネル、72の橋と3つの気候帯(熱帯0~800m、亜熱帯800~1800m、温帯1800m以上)を通っています。
台北に来たら、鼎泰豊(ディンタイフォン)の本店へ。1958年に台湾台北市で食用油を取り扱う油問屋として創業、1972年に小籠包を始めとする点心料理の販売を開始、1993年にはニューヨークタイムズ紙「世界の人気レストラン10店」の1つに選ばれたそう。ということで、ここではやっぱり「小龍包」。
永泰街のすぐ近くにある本店が一番おいしい!とか、何かと評判がよいみたいなので、本店に来てみました。
台湾の女性たちは、肌や髪をきれいに保つことを大切にしているようで、ほくろもシミもソバカスも皮膚の病気、「病気なのに何で治さないのか?」という感覚なのだとか。そんなこともあり、友人と病院でシミ取り”治療”をしてきました。
確かに在台中、少し肌が荒れると女性達がこぞって心配してくれ、皮膚科に行くように勧めてくれたり、肌にいいものを食べに行こうなんて言ってくれたりします。上の画像は、その「治療」をしたときの病院の領収書。金額は「3,215元」。当時、1元=3.5円くらいでしたから日本円にすると10,000円ちょっとですね。
あれだけ日差しも強いのに台湾の女性は肌がきれいな人が多く、美容事情はとてもアツイ!女性達の美肌への情熱は大変なもので、美容にかける年間消費総額は国防費を超えるとか。富裕層ならともかく、ごく普通の暮らしをしている女性たちはいったいどうしているのだろう??
鹿港(ルーガン)の見どころのひとつ「九曲巷(ヂウシュイーシァン)」。細く曲がりくねった細い道にレンガ造りの高い壁。ここを曲がると、さっきまで目を開けているのがつらいほどの強い風と砂埃が嘘のよう。
このあたりは旧暦の中秋節が過ぎると、「九降風」という季節風がかなりの強さで吹き続けるため、強風や砂埃を防ぐため、わざとこうして曲がりくねらせて作ってあるのだとか。
台湾に来ると日本統治時代のものに関心が向いてしまいますが、せっかく来たのだから、日本が入って来る前の台湾がどんな感じだったのか、また戦後の国民党時代はどうだったのかも知りたいところ。
今回は、台湾中部の古い港町「鹿港(ルーガン、台湾語:ロッカン)」に行ってきました。中国の福建との貿易港で、台湾文化史の「鹿港期*」を築き上げたほど栄えていましたが、日中戦争の勃発で貿易は断たれ、日本統治時代に入ると大きく衰退してしまいました。ただ、建築芸術など、今でも当時の面影がわずかに残っています。
*鹿港期:大陸との交易による経済力を背景に多くの文学者や書家を輩出した時代。
全盛期は1785年~1845年頃。
この橋が造られたのは日本が台湾を統治していた1940(昭和15)年。
当時、セメントは希少で高価だったため、糯米に黒砂糖や石灰などを混ぜて代用して造られたそうです。長さ:約53m、幅:約5m、高さ:約20m。橋の名前は「糯米橋(もちごめばし)」。
場所は、南投縣國姓鄉北港村という山奥。当時このあたりには20の村があったことから「二十粒」と呼ばれ、この橋は主にサトウキビを砂糖工場へ運ぶためによく使われていたそうです。
台湾人女性のみなさまいわく、蒟蒻は「好吃又不胖(おいしくて食べても太らない)」、「健康又防癌(健康になり癌も予防)」しかもお手頃価格。日本人には蒟蒻ゼリーくらいしか思い浮かばないけど、台湾には蒟蒻デザート専門店があり、売ってるのはゼリーではないという。
若い女の子たちは「かわいい~♪」「かっこいい~♪」「おいしい~♪」というノリで物を選べるが、30歳も過ぎると「体によい、美容によい、商売繁盛、勝負運、金運UP!」でないと食指が動かないらしい。
やってきたのは台北の「冰冰蒟蒻(ビンビンジュゥロウ)」。
台湾には日本語を流暢に話す人や日本人に親切な人が多いことはよく知られているけど、みなさんが日本や日本人に対してはどんな記憶や思いを持っているのか、直接聞いたことはありませんでした。
滞在中、日本統治時代を知る世代の方々とお話する機会に何度か恵まれました。強い反日感情を持つ人も当然おられだろうし、抗日事件だってあったわけだし・・と、少し緊張しましたが、まるで親戚の子にでも会ったかのような温かいもてなし。
・・・負の記憶ではないのかな?
お茶の名産地のひとつ、台北市南部の文山区にある猫空(マオコン)。高台に茶芸館が立ち並んでいます。猫空でのお茶の栽培は、清の時代末期(19世紀末ごろ)に中国のお茶の産地である福建省の安渓地区からの移民によって始まりました。
20世紀に入ると猫空はウーロン茶と鉄観音茶の巨大な生産地となり、現在でも年間60トン以上のお茶が生産されているそうです。
阿里山に、日本統治時代に建てた「樹霊塔(シューリンタ―)」がありました。今でも林業の現場では行われているのかもしれませんが、当時も木々の命や魂を敬っていたことが伺えます。木材は私達の生活に欠かせませんが、日本も台湾も森林に守られた国であることになかなか意識が及びません。
山で暮らす台湾原住民の方達は、「国民党時代の教育を受けた漢人にはこうした発想はまったく見られない!!」と嘆いていました。こうした嘆きについては別途記事にするとして・・・・