2016-12-20
2016-11-30
LA|全米日系人博物館(8):日系人部隊
前回「全米日系人博物館(7)」の続きです。1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内でも志願兵の募集が始まりました。部隊名は「第442連隊(442nd Regimental Combat Team)」。
軍服は思ったより小さく、当時の日系二世も小柄だったことがうかがえる。 |
忠誠登録で「YES」と答えた日系人は87%もいたにも関わらず、当初、兵役を志願し入隊できたのは800人くらいだったそうです(その後は増えます)。
2016-11-29
LA|全米日系人博物館(7):忠誠登録
前回「全米日系人博物館(6)」からの続きです。収容所が開設された直後から、アメリカに忠誠心があると認められた日系人に対して、収容所を出て軍事制限地区から離れた地域に定住させる施策(「再定住」という強制的な同化)も行っていました。これにより、戦争による労働者不足を補うために一時的に収容所の外にある農園や工場で働くことができた人もいたそうです。
そしてもうひとつ、二世たちが収容所から出る方法がありました。それは「アメリカ陸軍への入隊」でした。
2016-11-28
LA|全米日系人博物館(6):強制収容所とその記録
前回「全米日系人博物館(5)」からの続きです。1942年から1946年まで、アメリカ政府は、約7万人のアメリカ国民(二世)を含む、約12万人の「日本人の血を引くすべての民間人」を拘留するため、内陸地の砂漠や沼地や荒野に10箇所の強制収容所を建てました。集合センターから日系人が送られた環境はとても厳しいものでした。
有刺鉄線に囲まれ、監視塔には銃を持った兵士が立ち、その視線や銃口は収容されている日系人に向けられていました。すきま風が入り込むような粗末なバラックに、他の家族と詰め込まれるような相部屋、仕切りのない共同シャワー室や共同トイレ、食堂での粗末な食事・・・衛生状態も悪く、感染症が流行ることもあり、気候も厳しいため体調を崩し、命を落としてしまう人もいました。
2016-11-27
LA|全米日系人博物館(5):強制立ち退き
前回「全米日系人博物館(4)」の続きです。1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃が始まりました。当時アメリカ本土で生活していた日系人は約12万7000人、そのほとんどが西海岸の3州(オレゴン州、ワシントン州、カリフォルニア州)に集中し、特にカリフォルニア州には9万3000人の日系人が住んでいたそうです。
当時のアメリカの軍当局が日系人の立ち退きを命じた掲示。 All Persons of Japanese Ancestry =日本人を祖先にもつすべての人々、とある。 |
1942年2月に当時のルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名したことにより、アメリカ国籍を持つ二世も含め、日本人の血を引く住民はすべて、移転所に出頭するよう告知がなされました。これにより、これだけの日系人がたった数カ月のうちに、アメリカ本土の内陸部(すごーく辺鄙なところ)に作られた10カ所の強制収容所に送られることになりました。
2016-11-26
LA|パブリックアート:Pope of Broadway(LADT)
ロサンゼルスのダウンタウンにある元Victor Clothing Companyの建物に描かれた壁画。今にも動き出しそうに描かれているのは、俳優のアンソニー・クイン。
この作品は、壁画アーティスト Eloy Torrez氏が制作した『Pope of Broadway』。
グランド・セントラル・マーケットの近くです。
2016-11-25
LA|全米日系人博物館(4):二世への期待、真珠湾攻撃
前回「全米日系人博物館(3)」の続きです。 一世達は、祖国である日本への強い思いや絆を保ち続け、一部の地域に集まって生活し、助け合いながら各地でいくつもの日本人のコミュニティーを作っていきました。そこには日本語学校、寺院や教会等の施設もありました。けれど、皮肉なことに、一世達の努力や成果、成功は、周囲のアメリカ人達の反日感情と恐れを増大させることに繋がりました。
そしているうちに次の世代も生まれ、育っていきます。一世の移民のアメリカ生まれの子供達は、法律上は正式なアメリカ市民として認められていました。
2016-11-24
LA|全米日系人博物館(3):そもそもの話、移民って
前回の「全米日系人博物館(2)」からの続きです。博物館では一部のキャプションに日本語訳があるので、大まかな歴史は英語が苦手でもわかると思います。
それに加えて日本の戦争関連の博物館や資料館に比べると(国が豊かだから品質がいいのと、空襲等で焼けていないこともあって)、展示物の保存状態が非常によいこと、量が多いこと、写真も多いので、非言語でもわかりやすいと思いました。そんなところにも戦勝国のゆとりを感じます。
2016-11-23
LA|全米日系人博物館(2):強制収容所の建物
2階が常設展示のコーナーです。階段を上っていくと、途中からナントモいえない”すえた臭い”が漂ってきます。視界に飛び込んできたのは「強制収容所」のレプリカ?・・・と思ったら、本物でした。
他州の砂漠みたいなところに放置されていたものを、ロサンゼルスまで運んできたそうです。
2016-11-22
LA|全米日系人博物館(1)
リトル・トーキョーにある「The Japanese American National Museum(全米日系人博物館)」に行ってきました。
日系人の歴史、明治時代の官約移民から、日系人がアメリカで権利を認められるまでの歴史全般についての展示がされています。建物の大きさの割に展示スペースはコンパクトですが、非常にわかりやすいと思いました。
2016-11-17
LA|ユニオン駅(LADT)
ロサンゼルスにあるユニオン・ステーション。パームツリーと青空と白い建物、昔ながらのカリフォルニアのイメージ(?)。鉄道利用の予定はなかったけど、前を通りかかったので、ちょっと覗いてみました。
オープンしたのは1939年。かつては3社のアメリカ横断鉄道が発着し、交通の中心として栄えていたそうです。
2016-11-16
LA|米国内最大規模の日本人街:リトル・トーキョー(2)
ダウンタウンを歩いていると町の歴史は浅くとも結構古い建築物も残っているなあと感じることも多いのですが、リトル・トーキョーのごく一部に古い町並みを敢えて保存している地区がありました。
真ん中にある赤い「CHOP SUEY」と書かれた看板は書体からしていかにも古そうな感じ。この「ファーイースト・チャプスイ・レストラン」は、1925年開店のアメリカ式中華料理レストランで、チャップリンも常連だったとか。
2016-11-15
LA|米国内最大規模の日本人街:リトル・トーキョー(1)
LAにあるリトル・トーキョーは、アメリカ国内で最大規模。日本では既にレトロ扱いになっている「櫓」や「瓦」ありました。東京を意識して作ったわけではないだろうけど、機能や拠り所としての「東京」だったのかなと。
以前に比べて、日本語が聞こえてくることはグッと減っていました。
2016-11-14
LA|1917年創業の市場、Grand Central Market (LADT)
ダウンタウンにある1917年創業の歴史のある市場。その頃、日本は大正6年。これまでここで日本人に会ったことがなかったため、日本人ウケはよくないのかな?と思いつつ、一応記事にしておきます。
2016-11-13
LA|海を見ながらメキシコ料理!Las Brisas(Laguna Beach)/雑貨
Laguna Beachは、カリフォルニア州オレンジ・カウンティにある高級ビーチ・リゾート都市。富裕層やアーティストが多く、ギャラリーや雑貨店も多いエリア。
今回行ったメキシカン料理「Las Brisas」、この近くに住むお友達セレクト。
ちょっと高いところから海を見下ろせます
2016-11-11
LA|カリフォルニア、空からの眺め
2016-11-10
Beauty|Doveの実験(1):あなたは自分が思うよりもずっと美しい
戸惑いませんか?この質問。「自分の容姿を言葉で説明してください」と言われたら、あなたは何と答えますか?
私は、戸惑いました。それに何だか憂鬱。きっと嫌いな部分を嫌そうに、もしくはそんな感情すら悟られないように淡々とあげつらうかもしれない、少なくとも自分の言葉で肯定的には話せないことがわかっていたからです。
2016-10-23
東京|八端十字架とニコライ堂 (神田駿河台)
御茶ノ水のシンボル的なレトロ建築、ニコライ堂、正式名称は「東京復活大聖堂教会」 。背後にある近代的なビルとの対比がすごいですが、合成ではありません。
竣工は1891(明治24)年、1923(大正12)年の関東大震災で被災。上部ドームの崩落や全体火災で土台と煉瓦壁のみが残り、1929(昭和4)年に修復(復興設計者は岡田信一郎) 。名前も建築もロシアっぽいのでロシア正教会かと思ったら違うようで、失礼しました!
2016-10-13
東京|昭和生まれには懐かしい味のケーキ屋さん、近江屋洋菓子店(千代田区神田淡路町)
子供の頃、ケーキ自体が特別な存在で、幸せのシンボルのひとつだった気がします。売っているお店もケーキの種類も今よりずっと少ないけれど、食べる機会も少なかったから「またショートケーキ?」とか、文句を言う人もいませんでした(世代がバレる。)
あれから数十年、当時の味や幸福感を懐かしみたくても、もうないだろうと思っていたら「近江屋洋菓子店」さんがありました。
2016-08-24
映画|Go For Broke~ハワイ日系二世の記憶(日・2013年)
自主映画会にお誘い頂き「Go For Broke~ハワイ日系二世の記憶(日・2013年)」、ハワイの日系アメリカ人の歴史のお話です。
日系人の歴史をよく知らずに過ごし、今思えば学校でもほとんど教わらなった気が(←覚えてないだけ?)。若い頃、米国に行ったとき、よく知らなくて恥をかいたり、「日本人は自分たち日系人のことを何も知らないんだな」と複雑な気持ちにさせたこともあったかもしれません。
2016-03-19
湘南|昭和の団地がある風景:浜見平団地(2)【解体】
前回からの続き、今回は3DKのお部屋、内見です!「昭和という時代」を知る人には、温もりを感じて頂けると思います。3DK(和室6帖×1、和室4.5帖×2、DK6帖)のお部屋です。
部屋の中はとても明るく、ほんのり温かい。せっかくなので公団の歴史を紐解いてみます。
2016-03-18
湘南|昭和の団地がある風景:浜見平団地(1)【解体】
最近、町並みが急激に変わり始めていることを実感しています。新しいものに嬉しくなる一方、見慣れたものがなくなる寂しさもあり。「もっと見ておけばよかった」「撮っておけばよかった」と思うかもしれないものを地味に記録しています。
昭和30年代から続々と建てられた団地もすっかり老朽化。ライフスタイルもご近所づきあいも随分変わりました。今回は「団地」に焦点を当てました。
2015-12-24
澳門|空港 ~LISBOA間の移動:時間と交通費(バスとタクシー比較)
2015-12-23
澳門|ローカル・フード「豬扒包」:大利來記 總店(タイパ島)
一瞬、猪八戒って読んじゃったけど、まあ、どっちもブタであることには違いない、「豬扒包(ポークチョップバーガー)」。
葉野菜の1枚どころか、パセリ程度の装飾さえも省いたシンプルさ(緑の皿で代用?)。焼いた豚肉を挟んだだけ。大きくはみ出していてもお構いなし。正直、どうしてこれがそんなに人気なのか、わかりませんでした。
2015-12-20
澳門|カレー、おいしいよね:咖喱魚旦
2015-12-19
澳門|ポルトガル菓子「エッグタルト」/物価上昇を感じた瞬間
ポルトガルのお菓子「Pastéis de Nata(パスティス・デ・ナタ←複数形)」。エッグタルトとしてお馴染みの、カスタードが入ったサクサクのパイ。モゥ、本当においしい!
今回行ったのは、ポルトガル料理のレストラン&カフェ「CARAVELA」と「瑪嘉烈蛋撻店(Margaret's Café e Nata)」。どちらもリスボアから近いです。
2015-12-15
澳門|マカオってこんなとこ、私的メモ(2015年版)
香港経由で行くのが主流だからか、香港旅行のオプションのイメージだったけど、澳門だけでも十分楽しめました。日本からは飛行機で行くと、行きは5時間半、帰りは4時間半。実際には、5時間半はかからなかった記憶が。
時差は1時間。こうして地図で見ると、見落としがちなくらい小さいので、さらに拡大。島の構成はこんな感じ。
2015-12-14
澳門|やっぱり気になるお金の話:外貨両替(円→パタカ)
マカオの通貨は、パタカ(MOP)とアボス(AVOS)。
香港ドル(HKD)も流通しています。人民元も使えるところがあると聞き、一応、少しだけ持って行ったけど、結論から言えば出番なし。
「円→香港ドル」ではなく、「円→パタカ」に両替して、パタカでやりとりした方がお得みたい(2015年11月時点)。
2015-12-03
澳門|乗り換えがないのは楽、澳門航空で行く、澳門!
澳門(マカオ)に行ってきました。香港からフェリーで行くものと思ってたけど、澳門航空がANAとの共同運航で2015年11月11日から毎日就航になったそう。
ちょうどキャンペーン期間で、全部込みで24,780円(明細を見ると航空券代は15,000円!)。ANAのマイレージも付きました!たまたまだけど、キャンペーンを探して旅先を決めるのもいいかも。
2015-12-01
澳門|世界遺産巡り(1)
マカオの世界遺産は「歴史地区」として登録され、全部で30か所あるそうです(2015年11月現在)。
すべてがマカオ半島にあり、しかもほとんどが集中して存在しているため、1日ですべて回ることも可能という情報も。私達の場合、3日くらいかけて楽しむことにしました。ほとんどは徒歩と少しだけバスを利用。1日に25,000~28,000歩くらい。