やっと定番にたどり着いた気がしなくもないけど、火鍋というとこのスタイル!スープの色で紅白にしている感じ。
写真のように真ん中で仕切ったタイプと、太極の「陰陽」に見立てて曲線で仕切った「鴛鴦火鍋(ユァンヤン フォーグォー)」の2種類。鴛鴦とはオシドリのこと。どちらも底の方には隙間があるので、あまりかきまぜないほうがいいそうです。
やっと定番にたどり着いた気がしなくもないけど、火鍋というとこのスタイル!スープの色で紅白にしている感じ。
写真のように真ん中で仕切ったタイプと、太極の「陰陽」に見立てて曲線で仕切った「鴛鴦火鍋(ユァンヤン フォーグォー)」の2種類。鴛鴦とはオシドリのこと。どちらも底の方には隙間があるので、あまりかきまぜないほうがいいそうです。
台湾鉄道「台中」駅!鉄道工事は、日本統治時代の1905(明治38年)に始まり、開業当時の駅舎は木造だったそうですが、1917(大正6)年に現在のこの駅が完成したそうです。
東京駅っぽいと思ったら、東京駅丸の内駅舎や日本銀行本店などを設計した建築家・辰野金吾によるデザインの流れを汲んでいるとか(設計は、台湾総督府鉄道局に勤務していた建築家・松崎萬長氏)。
台湾に行くというと勧められるもののひとつ、「芒果冰(マンゴーのかき氷)」。若い子の間で流行ってるスイーツだと思ってたら、男性の比率も高く、日本人のおじさん達も結構食べに来ていました(笑)。ちなみに永泰街の「冰館」が老舗だそうです。
マンゴーのカキ氷は4月~10月までの期間限定。11月~3月までの間はマンゴーがないので、(個人的には)いちごと練乳のカキ氷がお薦めです。
日本統治時代に建てられた酒造工場の跡地のアートスペース「華山創意文化園区 」。長い間放置されて廃墟と化した工場跡をアーティスト達が占拠したことが始まり。次第にアートスーペースとして利用されるようになりました。
光華商場(日本で言う秋葉原みたいなところ)のすぐ近くなので、東京だったらとっくに解体し、商業施設に建て替えして、いかに利益を出すかに心血注ぐところかと思います。
墾丁の東海岸、佳鵝公路の鵝鑾鼻と佳楽水の中間点に位置する絶景スポット「風吹砂(フォンツェーサー)」。 本数の少ない公共バスの中からの撮影です。ちょっとぼやけていますが、特異な景観として知られている場所です。
砂丘というにはちょっとごつい感じがしますが、一応砂丘という扱いになっているようです。かなり強い風が吹きつける11月~2月が見頃らしく、わざわざ砂嵐を楽しみにくる人が多いのだとか。
台湾最南端エリア・墾丁に行った時に立ち寄った猫鼻頭(マオビートウ)からの眺め。向こうに見えるのは台湾最南端の岬・鵝鑾鼻(オールアンビー:がらんび)。この先の海は、台湾海峡と、かつて「魔の海峡」「輸送船の墓場」と恐れられていたバシー海峡の境界点にあたるそう。
台湾人も縁起のよいものは大好き!とにかくよく担いでいる。聞いているとお金のことばっかりだけど、楽しそう。
そんなお国柄、歩いているとあちらこちらでパイナップルの飾りが目につくのだけけれど、これは一体?
医学的根拠は不明だけど、花粉症に効くと話題になった「凍頂烏龍茶」。19世紀に林鳳池という挙人が大陸から伝えられた茶の苗を持ちこんで台湾の凍頂山で栽培したことがはじまりとされています。
その名前から、中国大陸の雪深い山村で春にだけ採れるもので、台湾・南投縣で採れることを知らなかった人もいたほどでした。 産地は南投縣の鹿谷(ルーグー)。
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台湾原住民のタイヤル族の子供たちが通う小学校へお邪魔しました。タイヤル族は、中国語、台湾語、日本語、タイヤル語を混用し、世代によって使う言語が異なっています。
年配者はタイヤル語を主とし日本語も堪能。若い世代は台湾語と漢語が中心でタイヤル語には不自由し日本語は理解できない。そんなわけで世代が異なると直接会話ができない時代もあったとか。
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台湾原住民が住むエリアの1つ。仁愛郷互助村の清流部落、日本統治時代には「川中島」と呼ばれていました。
1930(昭和5)年に起きた霧社事件(日本統治時代最大の原住民による抗日闘争)で、日本に対し蜂起したタイヤル族の6部落の生き残りが強制移住させられた場所です。
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高雄に現存する日本統治時代の建築「旧・高雄駅」。1940(昭和15)年に竣工、台湾西部に造られた日本統治時代最後の駅舎。ただ、この帝冠様式の建築は、ナショナリズムの台頭した時代に誕生したからか「ファシズムの象徴な建物」というレッテルを張られがちです。当時の台湾ではどうだったのだろう?
現在は、壁沿いに椅子があるだけで、簡易的な待合室みたいに利用されていました。
台湾も温泉王国。南部にある「四重渓温泉(スーツォンシーウェンチェン)」に行ってきました。台湾北部(陽明山温泉、北投温泉)と南部(泥温泉の関子嶺温泉)と並んで四大名湯のひとつに挙げられ、その水質は台湾で一番いいという評価。
「川を四回渡らなければならないため四重渓と名付けられた」という地に湧いたこの温泉、台湾で一番汚染の少ない川のそばに湧き、「霊泉」と言われています。ぬるっとした感じはあるけど、柔らかくて滑らかな水質です。
墾丁国家公園内にある「出火特別景観区」。低い柵で円形に囲まれた一角に、地面から出ているガスに火が着いて燃え続けている。そもそもガスって何なの?というと、「地球のおなら」だと聞いたことがあるけれど、ガスって呼ぶのはそういう理由だから?
それにしても、お元気なこと。
墾丁の佳楽水(チャーロースイ)付近で、これを頂いたのですが、いったい私は何を食べたのか??「海底戦車」という名前でしたが、どんな生き物???焼かれて半分に切ってあったので繋げてみたら平たい海老みたいな感じ。調べても全然わかりません。
謎だけど、すごくおいしかったです。
だけど、日本に帰ってからよく台湾に行ってる詳しい人に聞いても、知らないって言われた・・・(; ;)
朝食はおいしかったし、リゾート地に来ているという気分を味わうためには、台湾では少々コツがいる。「buffet=早い者勝ちの食べ放題」、早い時間に行って確保しないとほんとに無くなっちゃいます。
台湾の最南端エリア、墾丁に行ってきました。台湾は、国の中央を北回帰線が通り、北半分が亜熱帯、南半分が熱帯。墾丁まで来ると、10月中旬でも、曇りでも、すごい暑さ!
宿泊したのは「墾丁凱撒大飯店(ケンディン カイザーダーファンディエン)」。
台灣鐵路・集集(ジージー)線の「集集車站」こと「集集」駅。
台湾のローカル線の旅には外すことのできない集集線は、彰化縣「二水」駅と南投縣「車埕」駅の間の7つの駅、わずか29.7kmの区間を走る非電化の単線。しかも行き止り線。
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ここが駅のホーム。 |
集集線で、唯一残ってる日本統治時代の面影を残す駅舎「集集」駅は、1933(昭和8)年竣工のヒノキ造り。
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1999年9月21日01時47分(現地時間)、マグニチュード7.6。
震源地は台湾中部の南投縣集集(ジージー)鎮の九份二山。爆心地とも呼ばれているこの場所は、現在では「九份二山震災紀念公園」として開放されています。
日本で起こる地震は震源は海底であることが多く、陸地が震源地だったらその付近がどのような状態になるのか想像もつかないけれど、この光景を見たとき、本当にショックだった。わずかに足が震えていました。
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日本の関東圏だと箱根登山鉄道が有名ですが、世界三大登山鉄道のひとつと言われている「阿里山森林鐵路」、やはりパワーが違います!
始発「嘉義」駅~終着駅「沼平」駅(旧・阿里山駅)まで全長72.7kmを、約3時間30分かけて登りますが、その標高差は2274m、30m進むごとに高さ1m上昇するくらいの山道。
阿里山森林鐵路は、15の駅、49のトンネル、72の橋と3つの気候帯(熱帯0~800m、亜熱帯800~1800m、温帯1800m以上)を通っています。
台北に来たら、鼎泰豊(ディンタイフォン)の本店へ。1958年に台湾台北市で食用油を取り扱う油問屋として創業、1972年に小籠包を始めとする点心料理の販売を開始、1993年にはニューヨークタイムズ紙「世界の人気レストラン10店」の1つに選ばれたそう。ということで、ここではやっぱり「小龍包」。
永泰街のすぐ近くにある本店が一番おいしい!とか、何かと評判がよいみたいなので、本店に来てみました。
台湾の女性たちは、肌や髪をきれいに保つことを大切にしているようで、ほくろもシミもソバカスも皮膚の病気、「病気なのに何で治さないのか?」という感覚なのだとか。そんなこともあり、友人と病院でシミ取り”治療”をしてきました。
確かに在台中、少し肌が荒れると女性達がこぞって心配してくれ、皮膚科に行くように勧めてくれたり、肌にいいものを食べに行こうなんて言ってくれたりします。上の画像は、その「治療」をしたときの病院の領収書。金額は「3,215元」。当時、1元=3.5円くらいでしたから日本円にすると10,000円ちょっとですね。
あれだけ日差しも強いのに台湾の女性は肌がきれいな人が多く、美容事情はとてもアツイ!女性達の美肌への情熱は大変なもので、美容にかける年間消費総額は国防費を超えるとか。富裕層ならともかく、ごく普通の暮らしをしている女性たちはいったいどうしているのだろう??
鹿港(ルーガン)の見どころのひとつ「九曲巷(ヂウシュイーシァン)」。細く曲がりくねった細い道にレンガ造りの高い壁。ここを曲がると、さっきまで目を開けているのがつらいほどの強い風と砂埃が嘘のよう。
このあたりは旧暦の中秋節が過ぎると、「九降風」という季節風がかなりの強さで吹き続けるため、強風や砂埃を防ぐため、わざとこうして曲がりくねらせて作ってあるのだとか。
台湾に来ると日本統治時代のものに関心が向いてしまいますが、せっかく来たのだから、日本が入って来る前の台湾がどんな感じだったのか、また戦後の国民党時代はどうだったのかも知りたいところ。
今回は、台湾中部の古い港町「鹿港(ルーガン、台湾語:ロッカン)」に行ってきました。中国の福建との貿易港で、台湾文化史の「鹿港期*」を築き上げたほど栄えていましたが、日中戦争の勃発で貿易は断たれ、日本統治時代に入ると大きく衰退してしまいました。ただ、建築芸術など、今でも当時の面影がわずかに残っています。
*鹿港期:大陸との交易による経済力を背景に多くの文学者や書家を輩出した時代。
全盛期は1785年~1845年頃。
この橋が造られたのは日本が台湾を統治していた1940(昭和15)年。
当時、セメントは希少で高価だったため、糯米に黒砂糖や石灰などを混ぜて代用して造られたそうです。長さ:約53m、幅:約5m、高さ:約20m。橋の名前は「糯米橋(もちごめばし)」。
場所は、南投縣國姓鄉北港村という山奥。当時このあたりには20の村があったことから「二十粒」と呼ばれ、この橋は主にサトウキビを砂糖工場へ運ぶためによく使われていたそうです。
台湾人女性のみなさまいわく、蒟蒻は「好吃又不胖(おいしくて食べても太らない)」、「健康又防癌(健康になり癌も予防)」しかもお手頃価格。日本人には蒟蒻ゼリーくらいしか思い浮かばないけど、台湾には蒟蒻デザート専門店があり、売ってるのはゼリーではないという。
若い女の子たちは「かわいい~♪」「かっこいい~♪」「おいしい~♪」というノリで物を選べるが、30歳も過ぎると「体によい、美容によい、商売繁盛、勝負運、金運UP!」でないと食指が動かないらしい。
やってきたのは台北の「冰冰蒟蒻(ビンビンジュゥロウ)」。